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難波宮跡発掘調査の現地説明会に行ってきました





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 今日(1月20日)は、昨秋から行われていた難波宮跡の発掘調査の現地説明会があったので、見に行ってきました。
 
 写真は、現場を南から見たもので、発掘に携わった当館学芸員が解説しているところ。
 南北に長いトレンチの南端に、幅約7.2mの土壇が発見されました。


   DSC_0482_convert_20130120151732.jpg


 こちらは北から見たところで、建物を解体する際に残したとみられる大量の瓦の散乱が見られます。

 新聞には、「後期難波宮で回廊跡出土 孝謙天皇滞在の『東南新宮』一部か」(産経、2013年1月17日付)などと報じられました。
 この幅広い土壇は、回廊の壇だと推測されます。これまでの発掘調査の知見とあわせて考えると、後期難波宮の内裏の東南に、南北120~130m、東西85m程度の回廊がめぐっていたことが分かってきました。
 平城宮などでは、この位置に筆頭官衙である太政官が置かれていたそうですが、今回の発見は回廊を伴うことから、より格式の高い建物があったのではないかと考えられます。
 そこから推測すると、可能性のひとつとして「続日本紀」にみえる「東南新宮」であることが想定されるというわけです。

 詳しくは、<大阪文化財研究所ホームページ> をご覧ください!

 考古学には門外漢の私ですが、現地で説明を聞いてよく理解できました。
 みなさんも機会があれば、現地説明会に足を運んでみてはいかがでしょうか。


※難波宮跡(NW12-6)発掘調査の現地説明会(大阪市教育委員会・大阪文化財研究所・大阪歴史博物館)は、1月20日に終了しました。



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戦前の8mmフィルムを修復しています






 大阪歴史博物館には、さまざまな資料が収蔵されています。
 そのなかで、やや特殊なものが、戦前の映像(動画)フィルムです。

 戦前のフィルムは、劣化が激しいため、そのまま映写できないものが多数を占めます。
 そのため、専門的な処理を行いながら、内容を確認していきます。
 その方法については、このブログでも、映像フィルムの保存・修復として紹介していますので、ご参照ください。

 現在、かつて寄贈いただいた昭和10年代の8mmフィルムについて、内容確認、および16mmフィルムへの置き換え作業(ブローアップ)を行っています。
 先日、この作業を行ってくれているIMAGICAウエストを訪ねて、作業のようすを見てきました。

 この8mmフィルムは、このような缶に入っています。


   フィルム修復


 缶の底面です。タイトルが貼ってあります。


   フィルム修復


 これがフィルム。よく見ると、白い粉を吹いているのが分かります。少し状態が悪いですね。


   フィルム修復


 左上の方が折れ曲がっていますが、全体にカールしており、いわゆる“ワカメ状”になっています。
 担当の方と打ち合せましたが、このような状態でも、熱を加えるとフィルムが平らになるので、作業が可能になるということです。

 IMAGICAウエストには、状態の悪いフィルムでも内容確認できる特殊装置があるので、今回のフィルムも少し見てみました。

 その多くは、旅行時に撮影されたもので、例えば京都や和歌山の名所・風景などが写されています。
 なかにはカラー映像もあり、戦前としては珍しいですね。
 1本1本、内容を見ていくと、どれも興味深いものばかりで、すべてブローアップ&デジタル化したい気持ちになってきます! でも、大人の事情で、今年は2本しかできないんですよねぇ。残念…

 少し見ただけでも、“これは貴重かも”という映像も含まれており、これから調査を進める予定です。

 今年度は、2本のフィルムについて、16mmフィルムへのブローアップとデジタル化を行います。
 作業と調査には、もう少し時間がかかりますが、いずれご報告したいと思います。

 約75年前の映像がよみがえるなんて、とても魅力的なことですね!!

 完成の暁には、ぜひご覧ください!


 ※なお、これまでにデジタル化した映像の一部は、当館7階の常設展示室でご覧いただけます。





「大大阪」の誤解






 当館も開館10周年となって、この間、普及に努めてきた「大大阪」という言葉も、かなり広く知られるようになった。

 先日も、あるテレビ局の記者さんが取材に来られ、「大大阪」について教えてほしいと言われる。
 どうも、華やかで栄えていた時代として、大大阪を紹介したいらしい。
 やっぱり洋装の女性も多かったのですか、と問われる。
 実際は、そんなことはない、女性はほどんど着物ですよ、ということになるのだが、認識のギャップがあるようだ。

 また、先日も書店で、京阪神の“名建築”ガイド本が刊行されているのを見た。
 手に取ってみると、その“名建築”とは、すべて近代建築なのだった。まったく断りなく、建築=近代建築みたいになっている。京阪神といえば、京都を中心として、ずいぶん近代以前の名建築(古建築)があるはずだが… 
 それほど、近代の文化財が市民権を得たということだろう。

 これらの現象は、ここ数年顕著になってきたが、啓蒙が進んだと喜ぶべきなのか、行き過ぎと反省すべきなのか、むずかしい。私はすでに後者に傾いている。

 いま、手元にあった橡内吉胤『日本都市風景』(原著1934年、筑摩叢書に収録)をペラペラ繰っていた。
 そのなかに、「三都街風景」という随筆があった。橡内は、東京朝日新聞の記者などを務めた都市景観・都市計画に詳しい識者だが、東京のことも大阪のことも知っている。
 彼が紹介する昭和初期、すなわち大大阪の時代の街の様子を引いてみよう。

 
 たとえば、大阪なら大丸とか三越といったデパートの屋上に昇って鳥瞰してみれば、一目瞭然たるものがあるが、大阪にもビルディングの新出現によって近代の資本主義時代を印象づけてはおるが、東京に較べると、まだまだ孤立的なものが多くて、そのグループを発見することが出来ない。そしてその平坦な地形……煤煙にかすんだ空……大阪城の天守閣……新世界の望楼……といった特異な物象の聯合観念のもとに、大阪たる所以のものをハッキリと掴むことが出来るのであるが、それにもまして大阪の街の風景をまぎれもなく印象づけるものは、これらの散点するビルディングの島嶼を囲繞して累々たる大阪古来のあのドス黒い屋根をみせた町家の海だ。

 (中略)

 が、三都いずれも、その地方色を鮮明に盛った伝統的町家が近代の洋風建築のために押されてきて、その街景は一様に近代的になりつつあることは共通の現象ではあるが、それでも比較的古い家の多量な大阪の街景から推して、大阪人の性情のどっかに、あの近代色のビルディングを囲繞しておるシックイ造りの燻んだ色がつきまとっておるようにおもえる。大阪に鴈治郎の芝居がうけるのも、天満や御霊の社寺が発行するのも、大阪城の天守閣を復興させたり、街を動いてる男女の姿態にみても東京なんかにくらべて洋装がズンと尠ないといったことも、呉服物の柄や色合いの上にも一種渋い大阪好みというようなものが現われてくるということも自然に解るような気がする。

 私は両三年前あのドス黒い町家の続いておる道修町の薬種問屋の街から平野町へ歩いて往ったが、ここに大阪朝日の上野精一氏(同名異人だったらごめん)の邸宅を見つけたが、その邸宅は、やっぱり大阪固有の塗りごめ造りの豪壮なものであった。新聞なんかいういわゆる尖端的な事業にたずさわっておらるる人がこうした古風な家棟に住んでおるということは、ちょいとゆかしいようなまた一種異様な感じがせんでもない(甚だオセッカイな話だが……)。

 (中略)

 とにかく、一種近代的な色彩でグングン塗りつぶされてゆくようにおもわれる大阪の街に、案外まだまだこうした寂びの風景がシミのように残っておることを逸してはならない。


 この橡内の指摘に、私もほぼ同感である。
 「ドス黒い屋根」の町家や、「シックイ造りの燻んだ色」の町家が、大量に櫛比している街が大阪であり、その屋根の下で日々の暮らしが営まれている。
 この街並みを「黒く低い屋根の海」と呼んだのは小出楢重であった。

 都市に、古いものと新しいものが混在しているのは当然である。歴史を眺めていると、どうしても新しい側面に目が向いてしまうものだが、変わらないもの、伝統的なもの、慣習的なものに注意を払うことを忘れてはいけない。最近、自戒を込めて、そう思うのである。




<映画の保存と復元に関するワークショップ>に参加しました






 近代の博物館資料には、さまざまな素材から構成されたモノが存在します。なかでも、その保存が難しいのが映像フィルムです。
 特に“ビネガー・シンドローム”と呼ばれる劣化現象は、資料保存にとって深刻な問題です。ここ数年、それらの問題について学んできましたが、外部の専門家の方々から教わることの連続でした。

 8月27日、28日の両日、京都文化博物館を会場にして、<第六回 映画の保存と復元に関するワークショップ2011>が開催され、私も参加してきました。

 大阪芸術大学の太田米男先生らを中心に、取り組まれているものです。
 参加者は年々増え、今年は全国から100名以上にのぼり、現像所など映画関係の方、大学等の研究者、映画の保存・上映に携わる方、博物館・アーカイブ等の職員などと多彩です。
 
 今年のプログラムは、次の通りでした。

  27日
 *東京国立近代美術館フィルムセンターの取り組み(板倉史明氏=フィルムセンター)
 *映画フィルムの歴史(宮村信吾氏=コダック)
 *映画「長恨」「銀輪」上映
 *リニューアルに際しこれまでの文博のあゆみと2010年度の成果(森脇清隆氏=京都文博)
 *海外の映画保存事情-L.ジェフリー・セルズニック映画保存学校の視点から-(ジョアン・バーナディ氏=ロチェスター大学)
 
  28日
 *東日本大震災に学ぶ:わたしたちにできる映画フィルム救済(中川望氏=映画保存協会、ほか)
 *テレビ映画「古川ロッパの水戸黄門 竜王明神の巻」上映
 *『地獄門』三色分解について(益森利博氏=IMAGICAウエスト)
 *『地獄門』デジタル復元について(石田記理氏=IMAGICA)
 *『地獄門』復元の監修にあたり(森田富士郎氏=撮影監督)
 *映画「地獄門」上映(デジタル復元版)

 なお、29日には、大阪にて実習編が開催されました(私は参加していません)。

 私は、第2回から参加しているので、5年目になるでしょうか。
 例年ハードスケジュールなのですが(笑)、今年は少しゆったりと聴講できた感じでした。
 2日目の「ロッパの水戸黄門」は、半世紀前の作品なのですが、結構おもしろかったですよ!

 さて、初日のJ.バーナディ(J.Bernardi)さんのお話は、米国のジョージ・イーストマン・ハウス国際写真映像博物館の映画保存についてと、イーストマン・ハウスとロチェスター大学との連携についてでした。

 ジョージ・イーストマンは、ご承知のように、コダックの創業者です。ロチェスター大学に寄贈されたその旧邸(イーストマン・ハウス)に博物館が開設され、1989年には増築も行われ、3万本のフィルムなどを収める映像博物館となっているそうです。発火性のあるナイトレートフィルムも上映できるドライデン・シアターも有しています。
 
 ロチェスター大学とイーストマン・ハウスとは、連携して「セルズニック・プログラム」を実施し、2年間で映画保存について学べる養成コースを作っています。
 1年目は、理論を学ぶと同時に、ミュージアム実習やラボ実習などを受けます。その修了にあたっては「実習試験」が行われ、フィルムの受け入れからアーカイブ作業までの手順が正しく行えるかが試されます。
 2年目は、映画史や映画理論などの講義を受けます。

 お話を聞く限り、フィルムの保存や管理に関する実務が学べる専門的コースとして、極めて意義のあるものと感じられました。日本の現状では、理論と実務を融合したプログラムの実践は、なかなか難しいでしょう。

 バーナディさん自身の大学の講義は、Film as Object(物質としてのフィルム)というタイトルだそうです。つまり、映画を作品内容からだけみるのではなく、モノとして理解もするというスタンスです。研究の基礎には、その素材である資料が欠かせませんが、資料を保全するためには、その物質的側面に着目することが不可欠です。とりわけ、映画フィルムのような近代の化学材料からできた資料については、この視点が重要です。

 2日目の午前は、東日本大震災におけるフィルムやビデオの救済についての報告でした。
 NPO法人映画保存協会や東京光音、吉岡映像などが協力して救済に当たられました。
 画像も交えて、フィルムやビデオテープの洗浄作業などの説明を受けたのですが、ビデオテープは予想外に強いようです。
 津波を受けたので塩分を浴びていますが、中和作業などで緩和できることも多いようです。
 詳しくは、ウェブサイト<映画フィルム救済・ご相談窓口>をご参照ください。

 ワークショップの最後の部門は、今年実施された映画「地獄門」(衣笠貞之助監督作品、大映京都、1953年)のデジタル復元についてです。約60年前の退色した映画を蘇えらせる試みです。

 復元前と後を“ビフォー・アフター”的に説明していただきました。復元の主要なポイントである、解像度・明るさ・色などについて、どのように調整されたかがよく理解できました。
 今回の復元の特徴は、退色が少ない三色分解フィルムが保存されていたので、そのフィルムから復元が実施されたことです。三色分解のフィルムは、3本のモノクロフィルムから構成されるのですが、フィルムは経年変化によって収縮していたため、合成の際、色のズレが生じました。それをレジストレーションピンを削って地道に合わせるという作業を通して、きっちり合成できたといいます。そのプロセスも、画像によって説明していただきました。
 復元前と後とを比較すると、赤っぽいフィルムが実に鮮やかな色彩に蘇えりました。
 詳細は、IMAGICAニュースリリースを。

 一番最後は、「大魔神」の撮影などで知られる森田富士郎さんのお話でした。私たち大阪歴史博物館で話していただいたこともありますが、いつもカクシャクとされています。1927年生まれとおっしゃっていました。
 映画の黄金時代に現場を担ってこられた方の話をうかがうと、現在の私たちの営みは先人の努力の積み重ねによって成り立っているということが、よく理解できます。

 今年も勉強になる二日間でした。
 講師の方々、事務局・会場のみなさま、ありがとうございました。 




環状線と山手線は似ている?






 前回、大阪の環状線展を見た話を書きました。

 輪になっている路線といえば、大阪環状線とともに、東京の山手線がありますね。私も東京出張などでよく乗ります。でも、なんとなく分かりにくいのですね、慣れなくて… 山手線に、京浜東北線とか埼京線とかが混じって走っているので、関西人にはちょっと“?”です。

 この山手線、いまは環状ですが、大阪と同じで、もしかすると元々は環状じゃなかったのでは? ということで、調べてみました。
 やっぱり、環状じゃなかった!

 東京に出入りする鉄道は、明治前期、いまの東海道線の起点が新橋、東北線が上野でした。
 東北線を運営していた日本鉄道は、東京の街を縦断して東海道線とつながる路線を敷設したかったのです。しかし、東京市街(いまの上野駅-東京駅-品川駅あたり)に線路を敷くとなると、家が建て込んでいて用地買収や工事も大変になります。そこで、その地域を迂回する形で、東方の山の手側にルートを取ったのでした。これが、山手線の第一歩で、明治18年(1885)のこと。品川と赤羽を結びました。

 当時、そのあたりは東京の外縁部、ひなびたところでした。例えば、そのとき開設された新宿駅。「新宿」という名は、甲州街道の内藤新宿から来た名前。宿場町だったのです。地名としても、新宿というより「角筈(つのはず)」という名が通っていました。また、駅の東には、数年後に広大な浄水場が作られます。ヨドバシカメラの名にも付いている淀橋浄水場です。

 明治36年(1903)には、池袋から東北線の田端まで線路ができ、上野まで列車が走れるようになりました。その後、大正時代には新橋-東京間にも路線が敷設されます。このとき、いまの中央線もできていたので、“「の」の字運転”が始まったのです。
 つまり、上野-田端-池袋-新宿-品川-新橋-東京-四ツ谷-新宿-中野、というルートです。「の」の字というか、「6」の字のような形ですね。


  山手線路線図 <山手線…関西人のために、ちょっと描いてみました>


 結局、上野と東京がつながって、いまのような環状運転が始まったのは、大正14年(1925)のことでした。
 大阪環状線の環状運転は昭和39年(1964)開始ですから、40年も早かったわけです。

 こうみてくると、大阪も東京も、どちらも最初は環状にするつもりはなかったこと、市街地を避けて線路を敷設したこと、環状運転の前に“「の」の字運転”をやっていたことなど、似ている点が多いですね。

 以上の記述あたっては、川島令三・岡田直『鉄道「歴史・地理」なるほど探検ガイド』(PHP研究所、2002年)などを参考にしました。この本は、タイトルのイメージとは異なって、大都市部の鉄道史を詳細かつ平易に述べていて、勉強になります。大阪のこともかなり載っていますので、興味のある方はご一読を。

 たまには東京のことを勉強するのも、都市比較になって面白いですね。





プロフィール

なにわ歴博

Author:なにわ歴博
大阪歴史博物館

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