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鹿児島を訪問しています






 出張で、鹿児島に来ています!

 新大阪駅から、新幹線「さくら」に乗車し、鹿児島に来ました。


  鹿児島

   鹿児島


 豪華な車内! 東海道新幹線のように3席+2席ではなく、2席+2席でゆったりしています。
 この列車では、4時間10分で、鹿児島中央駅に到着します。


   鹿児島


 館長と一緒に、鹿児島県歴史資料センター黎明館を訪問しました。


   鹿児島


 鹿児島の繁華街、天文館付近ですね。クラシックな建物は山形屋デパートです。

 市内では、桜島の灰が降り積もっています。
 今年は、例年より激しいと、地元の方の談話。


   鹿児島


 ねずみ色に見えるのが降灰ですね。私も、ずいぶん鹿児島に来ていますが、これだけ降っているのは初めてです。

 3年前の大河ドラマ「篤姫」の際、特別展「天璋院篤姫展」を担当し、何度も鹿児島に来ました。今日は3年ぶりの訪問です。ちょっぴり懐かしく、黎明館の学芸員さんと旧交を温めました。

 明日もまた、黎明館を訪問します。
 鹿児島レポート、まだ続きます!





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大阪城天守閣の眺望も撮影・取材できます






 先日、大阪市内のあるホテルから、広報誌の取材に協力してほしいという話がありました。

 取材内容は、大阪城天守閣の写真を撮らせてほしい、というもの!
 こんなご依頼にも、積極的にお応えしています!!

 10階の北側にある踊り場から、とてもよく見えるのです。
 ここですね。


   大阪城天守閣


 カメラマンさんに撮影していただきました。上はふだんの様子です。

 ちなみに、翌週には、東京のテレビ局の方が、VTR撮影に来られました。武田鉄矢さんの番組で使うそうです。

 今日、ホテル広報誌の校正刷りが送られてきました。当館10階から見た天守閣の美しい写真が掲載されています。

 そちらは、まだ紹介できないので、私が撮った下手なスナップ写真をどうぞ。


   大阪城天守閣


 かなりイマイチな写真で、すみません。
 上手な方、プロの方なら、ガラスの映り込みもなく撮れるようです。

 大阪城天守閣は、この11月、復興80周年。当館もオープン10周年。
 2つを見られるお得なセット券もありますので、この秋、ご来館いただけるとうれしいです。


   大阪城天守閣





特別展御礼!






 特別展「民都大阪の建築力」、本日閉幕しました。

 ご観覧いただいたみなさま、ありがとうございます。

 次は、10月15日(土)より、特別展「心斎橋 きもの モダン -煌めきの大大阪時代-」です。
 “芸術の秋”らしい展覧会かも。

 当館のウェブサイトも更新していますので、ぜひご覧ください。





急げ! 特別展「民都大阪の建築力」、いよいよ最終日 !!






   民都大阪の建築力


 夏休みから開催してきた特別展「民都大阪の建築力」も、いよいよ9月25日(日)で最終日となります!
 お見逃しの方は、急いでお越しください!!

 3連休も大勢の方に来場いただいています。

 土日祝は、特別展オリジナル絵葉書をプレゼントしてきましたが、最終日の25日もさしあげます!
 

   民都大阪の建築力
  特別展オリジナル絵葉書(3種のうち1枚を進呈)


 先着200名様にプレゼント! ぜひ午前中にご来館くださいね(笑)

 天気もよさそうですし、散歩がてらにいかがでしょうか?





お彼岸の四天王寺と「麗子」






 木曜日は休みでしたが、博物館に用事があったので少し顔を出しました。
 そのあと、ぶらっと歩いて大阪市立美術館へ。でも、時間があったので、途中、四天王寺へ寄ってみました。


   四天王寺
     四天王寺西門


 大阪の人たちが「天王寺さん」と呼んで、信心している四天王寺。お彼岸だったので、多くの善男善女でにぎわっていました。

 このお寺には、当然よく訪れるわけですが、お彼岸に立ち寄ったのは初めてです。
 こちらの回向の仕方は特徴的なもので、経木流しという形を取っています。

 先祖などを供養する人は、まず回向券を求め、それと引き換えに経木を受け取ります。経木は、塔婆になる薄い板です。
 そこに先祖などの戒名を書いてもらいます。読経して経木を供養してもらったあと、境内の亀井堂へ持っていき、水に流してもらうのです。亀の井に薄い経木が浮かぶのですが、経木が重ならないように1枚1枚きっちりと文字が見えるように並べていくところが独特で、ありがたいことのようです。
 実に多くの経木が流されるのを見るにつけ、ここには篤い信仰が生きていることを思い、胸が熱くなります。

 大阪生まれの同僚に聞くと、こどもの頃は、お彼岸には四天王寺に行ったり一心寺に行ったりしたといいます。

 
   四天王寺


 戦後復興した五重塔。最も上層まで昇ることが出来ました。螺旋階段を上がっていくと、読経の声が… 老夫婦が座って先祖の菩提を弔われているのでした。ここには、無数の五重塔の姿をした位牌が並んでいます。階段を昇りながら、得も言われぬ心持ちになるのでした。

 参拝後、人の流れに流されながら、天王寺公園へ。
 こちらでは、大阪市立美術館にて、特別展「生誕120周年記念 岸田劉生展」が開催中です。
 “麗子、いっぱい。”のキャッチコピーでご存知の方も多いでしょう。


   岸田劉生展


 私は、「切通之写生」と呼ばれる「道路と土手と塀」が好きなのですが、今回は麗子像を数多く見ました。麗子は大正3年(1914)生れで、劉生はその5、6歳の頃から盛んに肖像を描き始めます。驚いたのは、画中に麗子が2人いる「二人麗子」のような常軌を逸したとも思える作品。劉生は後に日本趣味、東洋趣味に傾きますが、これは寒山拾得などの影響でしょうか。事実「寒山風麗子像」も描いています。
 多くの麗子像のなかで私が好ましかったのは、「麗子坐像」(1919年)でしょうか。麗子の引き締まった表情と、着物の細密かつ鮮やかな描写が素晴らしい。

 肖像画、風景画、静物画から南画まで、短い人生を多彩に生きた劉生の画業を約240点(展示替あり)で通覧できる得難い展観です。やはり写真版とは異なり、実際の絵を間近に見る経験は貴重です。劉生の肌理細かな細部描写は、写真版では分かりません。重要文化財の「麗子像」の着衣の部分や、「道路と土手と塀」の塀と石垣の部分など、実に繊細なものです。

 「麗子、いっぱい。」というコピーは、おふざけみたいに聞こえますが、実際に一杯麗子像を見ると、おそらく誰もが、それを描いてしまった劉生の内面に思いを致さないわけにはゆかないでしょう。多様な麗子像が一杯あることを受け止めることが、劉生理解へのスタートとなるように思われます。

 「岸田劉生展」は、大阪市立美術館で11月23日(水・祝)まで開催中です。




特別展ポスターの発送作業






 特別展が近づくと、みんなでポスター・チラシの発送作業をします。

 先週行ったのは、特別展「心斎橋 きもの モダン -煌めきの大大阪時代-」の発送です。


   発送作業


 送付物にも、いろいろなパターンがあるのですが、今回は大阪市内・府内の学校へ送るポスターが中心です。約2,000カ所あります!

 もちろん、学校以外にも、各地の博物館施設や社会教育施設、市の関係施設などなど、さまざまなところにお送りしています。
 当館に送られてくるポスター類も、実は大量にあり、相互扶助の関係になっています。

 今回は、作業人数が少なかったので、朝から始めて、午後の遅い時間までかかってしまいました。


   発送作業


 写真は、府内の学校へ送る封筒を、各教育委員会別に分けているところです。
 教育委員会の窓口にお送りすると、そこから各学校へ転送していただけるのです。たいへんありがたいシステムで助かっています!

 このような発送作業は、私の新人の頃からやっていました。
 当時(市立博物館時代)は、館の廊下に長机を並べて、大勢集まって作業をしていました。
 今は会議室でやっていますが、基本的には同じ作業。ただし、近年は外部委託して作業してもらっている部分もあります。
 
 大阪歴史博物館の広報宣伝費は、決して多くはありませんから、このような地道なやり方でPRしていくことも大切になってきます。
 
 開館10周年記念特別展「心斎橋 きもの モダン -煌めきの大大阪時代ー」は、10月15日(土)から開催です!






台風接近のなか、見学会の下見に行ってきました






 先日の記事でも報告しましたが、いま見学会の準備を進めています!

 9月21日は、台風接近のなか、2回目の下見をしてきました。雨は、ほぼ一日中降り続きました。10日前の下見はあんなに暑かったのに…


   見学会下見・宇治


 これは宇治川の濁流。午後4時頃です。宇治川の中州「塔ノ島」へ渡る橋は、通行止めになっていました。
 ほんとうなら下見も中止してもよかったのですが、次に予定が空くのは2週間後なので、天気予報を気に留めつつ、実施したのでした。私は、ポンチョを着て傘を差し、足元はサンダル、地図とペンはビニルパックに入れて持つという完全武装です。


 朝、京阪宇治線の木幡駅から開始。早くも強い降りで、駅で30分待機…

 許波多(こはた)神社や宇治陵など周辺を見て回ったあと、黄檗山萬福寺へ。


   見学会下見・宇治


 三門に、こんな貼り紙が…

 風雨でお堂の扉を閉めていて内部拝観できないので、山内だけご自由に、ということでした。

 私は、たぶん30数年ぶりの訪問。やっぱり、すばらしかった。


   見学会下見・宇治 萬福寺法堂


 萬福寺は、ご承知の通り、黄檗宗の大本山で、隠元禅師が開創された寺院です。お堂も明・清時代の様式を伝えていますから、雰囲気が違うのですね。同行したJ学芸員も、その清々しさに感動すると言います。
 
 そして有名なのが、これですね。


   見学会下見・宇治


 斎堂(食堂)前にかかっている魚板。開(かいほう)というものです。「」は珍しい字ですが、木の名だそうで、辞書には「一説古昔官衙にて、人を召す合図に木を切って、其背に孔を穿ち、之を打てば声を発する様に作りし器」とあります(大字典)。

 1時間ほど拝観して堪能しました。ふと振り返ると、隠元禅師が将来された植物が…


   見学会下見・宇治


 インゲン豆ですね。

 また雨の中を歩き出します。次は三室戸寺。西国三十三所の十番札所ですので、このあたりの道は巡礼道の趣があります。路傍には、道しるべが数多く建てられていました。


   見学会下見・宇治


 「右みむろみち/左わうはくみち」とあります。左の横には小さく、次の札所・上醍醐につながる旨が記され、巡礼への便をはかっていることがわかります。

 到着した三室戸寺。しかし…


   見学会下見・宇治


 台風のため閉山。しばし立ち尽くす図。

 まあ、仕方ないですよね、今日は。

 そのあと、めげずに宇治川方面へ進み、宇治上神社や宇治神社を拝観。


   見学会下見・宇治 宇治上神社拝殿

 
 国宝の本殿・拝殿のある宇治上神社。こちらも久方ぶり。本殿は神社建築最古の遺構とされる流造で、11世紀半ばのもの。拝殿は寝殿造を思わす美しい建物です。台風なのに参拝者は多かったです。

 隣接する宇治神社を出ると、目の前は宇治川です。濁流で驚きましたが…

 最後に、県(あがた)神社などを訪れて終了。今回、平等院は見学コース外とするため、今日は入りませんでした。こちらは、平常通り拝観可能で、大勢の修学旅行生らでにぎわっていました。

 雨中、長丁場の下見でしたが、やはり宇治は大から小まで文化財の宝庫ですね。
 今週コース編成を行って、来週には<昔の観光地を旅する2011-伏見・宇治->の募集要項を発表する予定です。お楽しみに!
 




室戸台風と雑誌「上方」






  また、大型の台風が接近してきた。とても心配している。

 77年前の今日、9月21日、大阪をはじめとする関西地方は、超大型の室戸台風に襲われ、甚大な被害が出た。昭和9年(1934)のことである。

 昭和の初めから戦後の昭和30年代にかけては、関西に大きな被害をもたらす台風が多く、室戸台風(昭和9年9月21日)、枕崎台風(昭和20年9月18日)、ジェーン台風(昭和25年9月3日)、伊勢湾台風(昭和34年9月26日)、第二室戸台風(昭和36年9月16日)などがあるが、9月20日前後に集中している。


   上方・室戸台風
   港区の被害(「上方」46号所収)


 室戸台風は、最低気圧が911.6ヘクトパスカルで、大阪市での瞬間最大風速は60m以上。風速計の針が振り切れて計測できなかった。大阪市内だけでも、死者949名、行方不明者41名、全壊戸数2,782、半壊戸数6,181にのぼった。ことに、午前8時頃に襲来したため、痛ましいことに登校した小学生たちに被害が出、市立小学校で251名の児童の命が失われ、教職員や保護者にも犠牲者が出た。まだ木造校舎が多かった時代、その倒壊が被害を大きくした。


   上方・室戸台風


 昭和初期に発行されていた郷土研究誌「上方」第46号(昭和9年10月号)は、急遽予定を変更し<上方大風水害号>を出した。
 表紙の絵は「大台風四天王寺五重塔倒壊図」。
 この猛烈な台風で、四天王寺の塔が崩壊したのだった。


   上方・室戸台風


 同誌口絵に載せられた四天王寺の伽藍。五重塔のあった場所が、ぽっかりと空白になっている。
 本文には大阪毎日新聞の記事が掲載されている。


 大阪の名刹四天王寺の五重塔が遂に暴風のため幾多の歴史を残して倒壊した、時間は丁度午前八時前、東大阪一帯が突風に襲はれ突如五重塔の上半が異様な音を立てながらメリメリと動きだし折柄雨と風のため塔の下へ避難してゐた参詣者廿数名はその音に逃げ出さんとした刹那アッといふ間に五重塔の南側の仁王門がガタガタとばかりに北東に向つて倒れ約二分間の後五重塔も北東へ崩れ出た、(後略)

 
 この塔は文化9年(1812)に建立されたものだった。
 「上方」は、建築史学の泰斗・天沼俊一(京都帝大)の談話「四天王寺の塔はなぜ倒れたか」を掲載している。
 この記事によると、塔は、まず三層目以上が風のため引きちぎられて空中に持ち上がり、同時に下の一・二層目が倒壊し、その上に三層目以上が折り重なってきたという。
 天沼は「五重の塔が風のために倒れたといふことはわが史上、未だかつてない出来事である」と切り出し、その原因を探っている。
 
 
 四天王寺の塔は江戸時代(文化年間)の建築にも拘らず芯柱は吊上げの方法でなく、古い第一の様式であった [注:第一の様式とは、芯柱を礎石の上に立てる工法。近世には芯柱を四層目あたりから吊上げて根と礎石の間に空間を置く方法がとられたという]、だから根を切り忘れた [ために倒壊した] といふことは全然意味をなさない、また倒壊の原因は根本的に、芯柱が吊上げの方法でなく、礎石の上に固定させた古い様式のためだとも一応は考へられるだらうがそれなら江戸期以前の古塔はすべて風禍の危険に曝されてゐるわけで従来一つや二つは倒壊した歴史がありさうなものである

 塔の構造に原因があるかも知れないが、そうとも言い切れないという見方である。
 
 さらなる推測として、「最初にちぎれた三層目あたりに何か建築上の手抜かりが伏在してゐたのではなかろうか、しかもこの附近を通過した台風が特に猛烈で(中略)風力が不平均に当つて安定を破つたのではないかとも想像される」と述べる。
 また天沼の依頼によって現地調査した佐藤佐(天王寺師範学校教諭)は、外陣の北西の隅柱などに若干の腐食があり、そのこと倒壊につながったという見解を示している。
 
 もちろん、このような文化財の被害は四天王寺のみにとどまらず、関西一円同じであった。
 京都では、建仁寺方丈や醍醐三宝院純浄観が全壊するなど、多くの社寺で倒壊する建物が出た。

 もう80年近く前の出来事であるが、文化財に携わる者としては心が痛む。それにもまして、往時その社寺を護られていた方たちの気持ちは如何ばかりであったろうか。

 四天王寺の五重塔は、室戸台風の7年後、いち早く復興された。
 しかし、その塔も昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまったことには、言葉を失う。

 
 「上方」編集人・南木芳太郎は、この号を「将来への備忘」として編んだという。
 そして口絵の冒頭には、安政津波碑の写真と、慶応4年の洪水図を載せている。歴史のつながりというものが、ここにも強く認識されている。
 





<関西ミュージックカンファレンス>開催しました!






  9月16日からはじまった音楽の見本市<関西ミュージックカンファレンス>。大阪歴史博物館を会場としたショーケース、ワークショップ等を18日、19日に開催しました!

   KMC


 国際色豊かな催しで、米国を中心に海外から大勢のアーティストが参加されました。
 上の写真は、チェコのバイオリニストです。

 今年は、オープンステージで高校生の演奏も!!


   KMC

   KMC


 大阪桐蔭高校と府立東淀川高校の吹奏楽、英真学園高校の軽音楽がありました。
 AKB48やKARAからアニメ主題曲まで、高校生らしいラインナップ。私たちにも懐かしいフィンガー・ファイブも…

 たまたま、NHKで全国学校音楽コンクールの収録や、民謡の会もあり、聴衆も多くてよかったです。

 前日の<建築物ウクレレ化保存計画>につづき、音楽づけの3日間でした。





伊達伸明×チチ松村<建築物ウクレレ化保存計画>開催しました!






   ウクレレ化保存計画


 9月17日(土)、美術家・伊達伸明さん×GONTITI・チチ松村さんのコラボで開催した<建築物ウクレレ化保存計画>in 大阪歴史博物館!


   ウクレレ化保存計画

   ウクレレ化保存計画


 絶妙のコンビネーションで、スライドを使いながらのお話もありました。


   ウクレレ化保存計画


 満員のみなさんも大満足のイベントでした!

 特別展「民都大阪の建築力」も、9月25日(日)まで、好評開催中です。





若狭の小浜へ






 休みの日、暇を見付けて若狭に行く。

 温泉につかってのんびりし、三方五湖や海を眺める。そこには都会では感じられない時間の流れがある。

 先日も、田烏から海沿いを走り、季節外れとなった民宿の建ち並ぶ阿納の漁港にクルマを停め、海に浮かぶ漁船を眺める。眺めたと思うと、また走り出す。

 小浜市街の外れにある羽賀寺に向かう途中、「箸のふるさと館」という看板が目に留まった。思い立って入ってみる。
 資料館かな? と思ったが、入館してみると、物産館だった。

 壁面に、たくさんの箸が取り付けられている。展示でもあるが、すべて値札が付いている。しげしげと見ていると、やはり買わなければ、ということになる。


   若狭塗箸


 少し奮発して、こんな塗箸を求めてみた。


   若狭塗箸


 からし色とえんじ色を基調とし、言葉で表現できない複雑な模様が浮き出している。

 若狭の塗箸は、漆を塗り重ね、貝殻や卵殻を用い、研ぎ出して模様を際立たせる技法を取る。
 全国の塗箸のシェアの約8割を占めるという。

 後日、某所で若狭塗箸を即売する場面に遭遇した。職人さんが、この箸は作るのに1年半かかる、と豪語しながら箸を示す。値札を見ると、4万数千円。驚く額だが、工芸品である。

 もちろん、私が求めた箸は、その1割にも満たない普及品だ。
 しかし、手にしっくりきて、すべりもしない。

 物欲はないつもりだが、珍しく満足して「箸のふるさと館」を出た。

 そのあと、羽賀寺に行った。
 忘れた頃に来る。
 本尊の十一面観音立像は、元正天皇の姿を写したと伝える。


   羽賀寺えはがき
   羽賀寺でいただける絵葉書


 誰もやってこない本堂で、観音さまの前に、ずっと座っていた。
 驚くほど彩色がよく残っている。いつも不思議に思う。そして、とても手が長い。救われそうな気がする。
 御厨子もなかなかよくて、落ち着く。

 若狭には、いくつも古刹がある。
 そして、海がある。
 海岸線が美しく、海の幸に恵まれ、海水浴ができる。

 鉄道では行きにくいが、その行きにくさが古き良さを保たせているようなところがある。

 これから秋になり、海で遊ぶ人たちがいなくなると、また若狭のよさが引き立ってくる。





「日本の美術」の休刊






 過日、博物館あてに、(株)ぎょうせいの『日本の美術』編集部から、<『日本の美術』休刊のお知らせ>という通知が届いた。

 新聞にも報道されたので、ご承知の方も多いと思う。

 昭和41年(1966)、東京・京都・奈良の国立博物館監修のもと刊行され、545号まで出されてきた。毎号、テーマを定めて、あたかも絵入り小百科の感を呈しており、役立つ雑誌だった。近年は、版元も至文堂からぎょうせいに交代。内容も、もともとは古美術の特集が多かったが、最近では近代もの(産業遺産など)も取り上げるようになっていた。

 休刊の理由として、出版不況、紙離れの進展で、出版事業の効率化を図っていく必要が生じ、この決断に踏み切ったという。報道では、部数減で収益確保が難しくなったともある。
 最近号の価格は、1,850円(税込)だったから、部数が減少するのもやむを得ないかも知れない。


   日本の美術
   第536号<奈良の鎌倉時代彫刻>


 それにしても。

 たとえば、シニア向け雑誌で、旅・社寺・仏像・古美術・古典文学・芸能などをテーマにした雑誌は、書店でもたくさん棚に並んでいる。
 そういった雑誌が好むテーマと、「日本の美術」が取り上げてきたテーマとは、重なる部分が多い。
 ただ、前者を見ると、かなり初心者向きで平易に書かれており、後者は専門家の手になる硬派な文章とかっちりとした写真からなる。良し悪しではなく、前者の方がマーケットとしては広いということなのだろう。
 

   日本の美術


 当館書庫のブックトラックに積まれた「日本の美術」。今日は、たまたま作業中で、このトラック以外にも数多くの「日本の美術」があった。

 半世紀近い伝統。

 なんとか新しい形で、この雑誌を継続できないものだろうか。
 





淀屋橋から歴史博物館まで歩いた






 月曜日の朝、用向きがあって、淀屋橋の市役所に行ってきました。

 用事はすぐに終わったので、さてどうしようか?

 というのも、私は中央区の範囲内くらいなら、だいたい歩いて博物館まで帰るのです(市役所は北区の端ですけれども)。
 
 こう言うと、皆に驚かれるのですね。
 でも、街を歩くと、いろんなものに気づかされて、勉強にもなり情報収集にもなります。
 以前も、国立文楽劇場で昼の部を見てから、上六で一杯やって、ぶらぶら歩いたんです(もちろん休日ですよ、念のため)。江戸時代の国学者・契沖の庵の前を通ったり、清水谷高校を見ながら歩いたり… ふだん歩かないルートで、愉しかった。

 この日は、朝とはいえ残暑のなか、いわゆる<船場>を歩きます。
 案外、ビルの陰で、暑くないのです。

 中之島から橋を渡って三休橋筋を南下。
 すると、こんな光景が…


   三休橋筋


 よく知られた近代建築の解体の姿。
 今月下旬も、ある集まりでこのあたりの建築を見学して回るのですが、さて、どう話したらいいものか。

 大阪の市街地中心部では、年々、得難い近代建築(いわば“登録文化財クラス”のもの)が取り壊されています。
 こちらの元Y社屋も、高層のマンション+商業施設になるようです。少し前に、会社が移転して空家になっていたので、心配していたのですが。
 最近、このような光景に出くわすたび、もう感想を失って、言葉が出ません…

 三休橋筋(さんきゅうばしすじ)は、近年ガス灯化も進み、ずっと南に行くと、重要文化財となった綿業会館もあります。


   綿業会館


 そこを東に折れ、いきつけのF文具店へ。
 ここでないと売っていないノートがあるんですね。

 さらに、東警察署と産業創造館の前を通り、本町橋を渡ります。ここの下流は、“曲がり”といって、東横堀川が屈曲しているのですね。昔の名残りが見られます。

 松屋町筋まで行くと、大阪歴史博物館までは、もう少し。
 30分ほどの市街歩行でした。

 これからの秋冬は、歩くのによい季節です。
 時間のあるときに、職場や自宅の近くを歩かれてはいかがでしょうか?





金曜歴史講座のご案内です






 毎回、考古学の最新の話題をお届けする<金曜歴史講座>。
 10月のシリーズをご紹介します!


 10月 7日(金) 市川 創「陶技の粋-佐賀藩蔵屋敷跡出土の『鍋島』-」
 
 10月14日(金) 大庭重信「おおさかの中心を掘る-難波宮・本願寺・大坂城-」

 10月21日(金) 京嶋 覚「もう一つの埋れた港-猪飼津と百済郡から古代の難波を語る-」

 10月28日(金) 南 秀雄「考古学からみた『難波のミヤケ』」


 佐賀藩蔵屋敷跡出土の「鍋島」や、難波宮跡出土の壁土、そして中世寺院跡、豊臣期の鍛冶工房など、話題の内容が目白押しです。
 学問の秋に、金曜歴史講座にお運びいただければ幸いです。

 いずれも、午後6時30分から、大阪歴史博物館 4階 講堂にて(受付は6時から)。
 参加料は200円です。
 詳しい内容は、大阪文化財研究所ウェブサイトをご覧ください。




見学会の準備中!






 秋を迎えて涼しくなると、博物館では館外へ見学会に訪れます。

 私は、ここ3年、<昔の観光地を旅する>という見学会を実施しています。

 現在の私たちの関心ではなく、明治・大正・昭和初期の人たちの興味関心にもとづいて、それを追体験しようという試みです。

 最初の年は、十分宣伝できなかったせいもあり、参加者も1ケタ、雨も降るし、苦労しました。
 しかし、「大和路の名所旧跡を歩く」と題した昨年は、30名以上の方が参加され、盛況でした。

 私たちにとって一番たいへんなのが、その下見。
 秋にやるから、当然夏に下見です… 先週末、1回目の下見を行いました。暑すぎました…

 今年は、京都の伏見・宇治に行く予定!


   見学会下見・伏見


 伏見稲荷大社ですね。今年、ご鎮座1300年だそうで、ご社殿も造替中でした。

 伏見稲荷といえば、お山めぐりが有名ですよね。土曜日だったせいか、暑さをものともせず、大勢の参拝者が山をのぼっておられました。外国の方も多いですねえ。

 今回、私とJ学芸員が注目したのが、鳥居の建て替え。山道のなかに無数に並んでいる朱塗りの鳥居です。
 下世話な話、まず気になったのがお金です。いくらで建てられるのか? 二人で、○十万だ、いや百万以上する、など喧々諤々。

 結局、答えはこれ!


   見学会下見・伏見


 細いものなら三十数万円から建てられるようなのですが、よく見ると、お値段は建てる場所によって異なると但し書きがあります。少し立派なものだと、百万円以上するようです。
 お山の上り口の最初には、とても大きな鳥居があって、有名な広告代理店が建てているのですが、いかほどのものなのか?

 運よく、建てるプロセスも見られました。
 まず、場所確保が行われ、そのあと現地で施工、さらに塗装となるようです。


   見学会下見・伏見
 

 これは、丸太で足場を組んで、6、7人がかりで組み立てている様子です。
 全部人力なので大変そうです。ここまで持って上がるのも、しんどいでしょうね。

 請け負っている工務店が書かれた<伏見稲荷大社御用達 鳥居職人のブログ>を見付けましたので、一読してみてください。
 いろんな仕事があるものです。

 お山をおりた私たちは、午後からは、南へくだり、石峰寺、宝塔寺、深草十二帝陵などを順に下見。


   見学会下見・伏見


 石峰寺には伊藤若冲の墓所があり、偶然にも忌日でした。


   見学会下見・伏見


 こちらは、宝塔寺の多宝塔(室町時代、重文)。

 このあたりで私たちは、暑さにめげて、京阪藤森駅から乗車。
 でも、そのあと粘って、丹波橋駅で下車し、桓武天皇陵から明治天皇陵へと歩きました。

 朝から、夕方5時すぎまで。われながらお疲れさま。一説には、3万歩以上歩いたとも…
 つづきの宇治編は、来週下見します。

 見学会<昔の観光地を旅する2011>は、11月中旬頃に実施予定です(後日、チラシ・ウェブサイトでお知らせします)。 




北原先生のことなど






 なにげなく、雑誌「地方史研究」352号(2011年8月)を見ていたら、北原糸子先生の文章が載っていた。この号は、山形県鶴岡市で開催される地方史研究協議会の大会準備号なので、それに向けての「問題提起」という文章が多数掲載されている。
 北原先生の「問題提起」は、「災害は歴史を変えるか-明治27年庄内地震をめぐって-」というものだ。

 北原先生は、日本災害史研究の第一人者であり、安政地震、関東大震災、磐梯山噴火など、四半世紀以上、この分野に取り組んで来られた。歴史研究者であるから、災害と社会とのかかわりについて考察され、近年では例えば写真などメディアと災害との関係を精力的に研究されている。

 私が北原先生の名前を知ったのは、たぶん大学に入る前のことだったように思う。
 朝日新聞の「ひと」欄に先生が登場された。『安政大地震と民衆』を上梓された時だったのだろう。
 その短いインタビュー記事の最後に、なぜ研究を続けるのですか、という問い掛けがなされた。
 北原先生は、きっぱり、「志です」と答えられ、その言葉が私の脳裡に刻み込まれて、北原糸子という名前が記憶された。

 後年、先生と何度目かにお会いしたとき、その言葉がとても記憶に残っていることをお話ししたが、先生はすっかり忘れておられた。

 記事に添えられた顔写真も印象的だった。
 凛とした、という言葉がぴったりの、強い意志を持った人の顔であった。いまから思えば、現在の私と同い年くらいだったということになる。

 そんなことから、厳しく怖そうな研究者と勝手に思い込んでいたが、実際の先生は優しく気さくな方だった。

 「地方史研究」の文章を読むと、明治27年(1894)の庄内地震で、集散地であり海運で栄えた酒田の町は、壊滅的な打撃を受けたという。
 このとき、多くの学者が現地を訪れ、調査を行った。特に建築学界では、辰野金吾や片山東熊らが訪れているほか、学生たちも実地に学んだという。当時、大学院生であった野口孫市(大阪府立中之島図書館の設計者)も調査に入り、1年後の復興ぶりは「今タ昔時ノ半ニ満ス」(いまだ昔時のなかばに満たず)などと報告した。

 今日は、そのあと、関西学院大学の災害復興制度研究所のウェブサイトで、三陸津波に関する北原先生の論文を読んだり、室崎益輝教授の論考を繙読したりして、しばらく地震と社会について考えていた。

 地域・家族・仕事など、日常における継続性(歴史)を重視した復興が大切だと痛感させられる。

 室崎氏の言葉を引用しておきたい。

 人間は防災だけで生きているわけではないということである。我々には仕事があって、暮らし、家族、コミュニティ、文化、自然がある。自然との共生、豊かな暮らし、生きがいのある仕事をもっと表に出して答えを引き出さなければならない。
 (中略)
 津波の恐ろしい体験をしたあとでなお元の低地に住みたいというのは、防災意識が低いからではない。海のそばに住むことが、仕事だけではなく、歴史や文化を背負って生きることであり、海を捨てたら自分たちの存在価値がないとわかっているからである。  (室崎益輝「『高台移転』は誤りだ」、「世界」2011年8月号所収)



おすすめ! 特別展の展示解説






   展示解説


 特別展「民都大阪の建築力」、もうご覧いただきましたでしょうか?

 あと半月余り会期がありますので、まだという方は是非お越しください。

 特に、おすすめなのが、学芸員による展示解説です。
 

   展示解説


 これは、前回のようす。30名ほど参加いただきました。

 解説文を読むだけでは分からない、展示資料の詳細情報や、歴史的な背景などをお話します。
 これは中央公会堂の設計競技(コンペ)について説明しているところですね。

 あと2回ありますので、それにあわせてご来館いただくと愉しいかと思います。


 ≪特別展「民都大阪の建築力」展示解説≫
 
  9月18日(日)、9月23日(金・祝) 午後2時より(約45分間)
 
  会場は、6階・特別展示室。参加費は無料ですが、入場には特別展観覧券が必要です。







学芸員実習に思う(5) ~ 実習生にアンケートを取ってみた! ~






 前回の「学芸員実習に思う(4)」で、大学生(実習生)は学芸員という仕事をどう思っているのだろう? と書きました。

 さっそく、その疑問を解消すべく、今日の実習で学生さんに協力いただいて、アンケートを取ってみました!

 20人ほどに尋ねましたが、少し意外でもあり、さもありなんと思う結果でもありました。

 意外に多かったのが、次のような回答です。

 ≪展覧会などを通じて、研究を広く一般社会に発信できる仕事≫
 ≪研究の場と一般の人々をつなぐ仕事≫

 3分の1近い学生さんが、こういう答えでした。
 そうかぁ、いわゆる「インタープリター(翻訳者)」という考え方ですね。

 ≪研究と教育・普及の両立≫という答えもありました。
 専門的な難しい事柄を噛み砕いて伝えることは重要なことです。

 次に多かったのが、こういう意見でした。

 ≪自分の好きな分野に携われる反面、雑多な仕事が多そう≫
 ≪本来は研究職で、展覧会などに向けて準備することが仕事でありながら、それ以外の雑務が多い≫

 これは、前回私が書いた「雑用」のことですね。
 
 関連して、このような言葉も。

 ≪自分の専門の研究を続けられる、と思っていた≫
 ≪自分の好きなものにかこまれていられるとイメージしていた≫

 二人とも“過去形”です!

 3日間、当館で学芸員から話を聞いて、やはり「雑用」の多さに・・・という感じかも知れませんね。
 できれば、「雑用」「雑務」という言葉を使わずに、細やかに学芸員の仕事を見て、なぜその仕事が行われているのかを考えてもらえると有り難いです。そうすることによって、その仕事を「雑」でなくせるかも知れないし、反対に無駄な仕事として削減することができるかも知れませんから。

 たくさん書いてもらったなかで、ひとつあったのは、

 ≪裏方≫

 というコメントです。
 案外、現場の学芸員には、こういう気持ちの人も多いのではないでしょうか。
 
 実は、今日のアンケートの別の設問に、こういうのがありました。

 【 大阪歴史博物館の「ここは直した方がよいところ」を教えてください 】

 その答えに、こういう意見があったのです。

 ≪直した方が、というかは分かりませんが、学芸員の皆さんが研究や専門分野、お仕事について、いきいきと楽しそうに(?)語られる姿が、一般の方にももっと見えればいいのに、と思いました≫

 あたたかいご意見、ありがとう。
 学芸員の“顔”が見えない、というのは、ふだんも言われることです。
 裏方だけど、少しは前に出た方がいい、という感じ?

 実習生のコメントを読んでいると、“学芸員が展示室などに立って、お客さまと会話を楽しんでいる”、なんていう絵も浮かんできます。
 そういうの、アットホームでいいですよね。

 とりあえず、今日はアンケートの速報でした。
 貴重な声を、ゆっくり噛みしめて考えてみたいと思います。

 ご協力いただいた実習生のみなさん、ありがとう!





学芸員実習に思う(4) ~ 学芸員として働くということ ~






 「学芸員実習に思う」として、昔語りを3回書きましたが、学芸員志望の学生さんたちへ、もう1回だけ書き留めておこうと思います。


≪国鉄職員だからキップを切るのか、キップを切るから国鉄職員なのか≫

 私は、<仕事>という営為に対する関心があって、長い間いつもそのことを考えてきました。それは、自分の専門が日本近代史であるという理由では必ずしもなく、自らが一人の職業人であるというところから発しています。<仕事とは何か>、その疑問を解くために、識者の書物も読んできました。
 
 そのなかで出会ったのが、黒井千次氏の『働くということ 実社会との出会い』(講談社現代新書、1982年)です。黒井氏は、作家になる前、15年ばかり富士重工で会社勤めをしていました。自身の体験に基づくこの本に、私はとても共感したのです。黒井氏が経験した一つ一つの事柄には、それ固有の意味があると思われるので、本書全体の要約はしないでおこうと思いますが、工場配属を命じられた初日、女性課員に「ソロバンは四つ玉でいいですか」と聞かれ驚いた(ベテランの人たちは五つ玉を使っていた)という話にはじまる、細々とした会社の話の連続です。

 この本のなかで紹介されている、ある国鉄職員の問題意識は、仕事というものを考えさせられます。

 <自分は国鉄職員であるからキップを切るのか、キップを切るから国鉄職員であるのか>

 ある席上で、この話題を出した黒井氏に、ひとりの大学生が「なにをつまらぬ質問をするのかといった表情で」論理的な答えを述べたといいます。しかし黒井氏は、それは違うと思うのです。

 毎日毎日、繰り返し改札口でキップを切っている人間が、ある時ふと、俺は一体何をしているのだろう、と我が身を振り返る。ほんの一瞬であったにせよ、そのような思いが頭をよぎるのは、自分の労働に対する疑問がどこかにひそんでいたからではないだろうか。いや、その前に、かかる自問の形をとって噴出したのは、実はある種の痛みではなかったのか。
 (中略)
 こういう問いかけが次々に己を揺さぶり続けるには、好むと好まざるとにかかわらず、仕事というものが我が身の内に深く喰い込んでいなければならない。我がこととしての労働が成熟していなければならない。就職前の大学生に質問の真意が掴めなかったのはあまりに当然の次第なのである。 (『働くということ』52-53ページ) 

 この国鉄職員の疑問を「哲学的」だと片付けてしまうこともできるし、「そんなこと考えるなよ」と切り捨てることもできます。私も、随分以前、ある人に「自分が“何のために”この仕事をやっているなんて考えない方がいい」と言われたことがあります。私なりに敷衍すれば、考えると疑問が沸いてきて仕事が出来なくなる(辛くなる)からだと思われます。

 かつて私の友人で、ある食品製造会社に就職した人がいました。彼は就職したあと半年もの間、その食品を配達するトラックの運転をさせられたのです。彼は、自分は食品会社に入ったのであって、トラックを運転する会社に入ったのではない--そう思って、会社を辞めました。
 運転“させられた”と考えてしまうと、もう仕事ができなくなるのです。

 国鉄職員も、同様に“考えてしまった”わけで、仕事人の処世術としては、その考えを消してしまうことが得策でもあるのです。

 しかし、黒井氏はそういうことを勧めるわけではありません。むしろ、その職員に「ある種の痛み」を見出すのです。
 仕事をするなかで生じる「痛み」について考えることは、とても重要です。
 

≪「会社」でなく「仕事」から≫

 黒井氏は、さまざまな問題を考えたあと、またこの話に戻り、次のように述べています。

 --自分は国鉄職員であるからキップを切るのか、キップを切るから国鉄職員であるのか。この問いを、卵が先か鶏が先かといった論議として受けとめたくない。彼は「キップを切る」から国鉄職員なのである。そう考えた時、彼の中にはじめて「職業意識」の地平が開ける。「国鉄職員である」からキップを切るのだ、と考えるなら、彼は「企業意識」の枠を遂に越えることは出来ないだろう。それが出来ない限り、国鉄という企業体を客観的に把握することも不可能だし、私鉄との比較において、運輸サービス業としての国鉄を相対化して見ることも困難とならざるを得ない。つまり、自分の「仕事」のありようを正確に認識し得ず、ひいては自分とはなんであるかを掴むことまでむずかしくなってしまうに違いない。 (同、129-130ページ)

 黒井氏は、企業意識でなく職業意識を持つこと、会社から出発せず仕事から考えることの重要性を説きます。
 このことが現実に成り立ち得るのは、会社は嫌いだが仕事は好きだ、という人が世の中にいることからもわかります。

 以前私に「考えるな」と教えてくれた人は、おそらく企業意識を強く持っていた人だったのでしょう。自分の職業というものに起点を置いたとき、やはり自分がなぜその仕事をやっているのかという理由や意義を考えてしまうでしょう。そして、そのことからよりよい仕事を作っていくという行為も生まれてくると思われるのです。


≪会社を辞めたい…≫

 私は、なぜ『働くということ』を読み、感銘したのか。
 その理由が、いま少しわかってきたのです。

 8月のある日、誰もが知っている製造業の会社に勤めている人と話をしていました。その人は工場の中間管理職なのですが、お盆休みも終わるからでしょう、「この時期、毎年会社を辞めたいと思って仕方がない」と言うのです。ちょっと唐突だったので内心驚いていると、仕事が嫌で嫌でたまらないと言います。そして、自分の夢は宝くじで大金を当てて退職することだと語るのです。

 また、こんなこともありました。
 ある集まりで、自分の将来の展望を語るという機会がありました(大の大人にそんなことをさせるのも変ですが…)。みんな何を言ってくるかなと思ったら、「早く退職したい」。

 私は、ホッとしたのでした。ああ、自分だけじゃなかった…

 働くうえで大切なことは、実は、仕事の内容そのものではなく、一緒に働く人たちと共感し合えることなのです。
 黒井氏が、15年間の会社生活で最も忘れ難い思い出は、乗用車の試作車が完成して走り出したとき、その場に立ち会った作業服の人たちが「走った、走った」と声を上げて、一斉にクルマの後を追って駆け出したことだといいます。そこには、人と一緒に働くことの喜びが象徴的に表れているからです。

 『働くということ』に記された著者や多くの職業人の経験は、誰もが感じる戸惑いや辛苦に満ちているからこそ、同じ働くものとして私に深い共感を与えてくれたのです。そして、その共感が働く者に救いを与えてくれる。
 辞めたいという他人の言葉を聞いて救われる… そんなことがあるか、と思われるかも知れませんが、他人と自分が同じだと知ることは、仕事をする自分の気持ちを軽くしてくれるのです。


≪学芸員の仕事とは≫

 翻って、若い実習生のみなさんが目指している学芸員は、いったいどんな仕事なのでしょうか?
 
 これも昔、ある人に言われたことがあります。

 「学芸員は、医者と同じで“個人商店”やな」
 
 なるほど、と思いました。

 たとえば、展覧会を作る仕事というのも、ある種の個人プレーです。度を過ぎるとよくないという見方があるものの、やはり個人が強く滲み出た展覧会でないと、おもしろくないという事実もあります。
 専門が細かく分かれているから、これはこの人の仕事、となる傾向もあります。それは、分野を超えた相互理解ができにくいということにもつながるでしょう。
 とにかく、学芸員は独りで仕事をやっている、という部分が多いように思えます。

 そのことは、よく言えば、一人の専門職として認めてもらい、仕事を任されているといえます。事実、学芸員には、強い責任感を持って仕事を遂行するタイプの人も多いでしょう。しかし逆に言えば、孤立無援といえなくもない。誰の助けも受けず、独りで仕事ができて当たり前、ということになります。
 学芸員の仕事を自立的・自律的と見る向きもあるようですが、それは表層的な見方だろうと私は思います。

 学芸員志望の学生さんから見て、学芸員はどんな仕事に見えますか?

 好きな学問を生かせる仕事? 魅力的な展覧会を企画できる仕事? 優れた文化財に直に触れられる仕事? こどもなど多くの人に学問分野を伝えられる仕事? いつも研究三昧の仕事?

 まあ、一番最後は冗談として(笑)、どれも当てはまるようでもあり、まったく的外れな気がしないでもありません。
 仕事は、どんな仕事でも多面的で、いろいろな要素の寄木細工といえます。また、多くの人たちとの共同作業といえます。それは学芸員も同じです。「専門職」「研究職」という先入観から、このことを見落とすと失敗します。
 昔から、学芸員は雑用が多い、と言われます(それを指す隠語さえありますが、私は嫌いなので書きません)。雑用が多いというのは自嘲の言としても、仕事のある部分(あるいは多くの部分)を「雑用」と受け止める感受性は、専門職の奇妙なプライドの裏返しで、仕事を崩壊させてしまいます。

 学生のみなさん、どうでしたか。

 日々現場で働いている学芸員は、一筋縄ではいかない仕事の前で立ち止まり、いろいろと考え、悩みながら、それでも前へ進んでいます。
 バラ色の世界だと勘違いされても困りますが、もしよろしければ一度この門を叩いてみてください。 
 





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新しい<えんそくのしおり>創刊!






 この夏、新しい広報メディアを創刊しました。

 その名も<えんそくのしおり>。


   えんそくのしおり


 これまでの当館の刊行物とは、少し雰囲気が違います。

 実は、この<えんそくのしおり>は、館外の編集プロダクションに加わってもらって編集したものです。
 担当も、若い(たぶん20歳代)の女性なので、ふだん私たちが作る印刷物とは異なったテイストに仕上がっています。

 四つ折りになっていて、なかを開くと、こんな感じ!


   えんそくのしおり


 特別展「民都大阪の建築力」を紹介しているのですが、ロールケーキの写真も!! 博物館近くのパティスリーとコラボして作ってもらいました。


 今回どのようにして、この<えんそくのしおり>が誕生したのか?

 大阪産業創造館という中小企業や起業を支援している団体で、私たちのような施設と企業さんとを結びつけるプロジェクトが行われています(パートナー募集事業)。今春、私たち歴史博物館が属する大阪市博物館協会に関するパートナー募集が行われました。
 博物館や美術館を活性化するようなアイデアを企業さんが提案されます。たとえば、こんな新しいグッズを作ってはどうですか? みたいなことですね。

 驚くほどたくさん応募があり、当館に関するものだけでも、300件以上ありました!
 A4表裏の提案用紙(もちろんデジタルデータですが)にまとめられていて、そのすべてに目を通すと、さすがに疲れました(笑)

 多かったのがグッズや書籍製作の提案。いまふうなのがデジタル化の提案(たとえば、AR=拡張現実を用いた展示製作)。展覧会の企画、広報宣伝の企画… さまざまでした。

 そのなかで、2、3の“これは!”というアイデアが目に留まったのです。そのひとつに、新しい感覚でメディアを作ろうという提案がありました。

 5月20日に産業創造館を訪れ、提案した企業さんからプレゼンを受けました。その会社が、(株)ウィルコミュニケーションデザイン研究所というところで、若い女性がサンプルを見せながら説明してくれました。
 私たちからすると、学芸員が思いもよらない紙面づくり、たとえば“おやつ”とか“おべんとう”とか(笑) 女子的にはふつうなのかもしれませんが、これまでの博物館にはそういう感覚が乏しかったのですね。

 当館のお客さまは、小学生と年配の方が多いのです。できれば若い方にも来てほしいなぁ、という願望が、この提案に興味を持った理由です。

 このアイデア、そこそこ経費はかかるけど、なんとなくできそうだったので、採用になりました。

 その結果、できたのが<えんそくのしおり>です。

 創刊号は、市内のカフェなど、女子が集まるところに置いてもらっています。男子の方もぜひ見てください!

 苦心しただけあって、なかなか力作で、たのしく仕上がっていますよ。

 秋が深まる頃には、第2号が出せると思います。
 
 <えんそくのしおり>、ご愛顧のほどを。
   





台風が過ぎて






 台風12号は日本海に抜けました。

 当館は、ふだん通り開館しています。
 午後からは、特別展「民都大阪の建築力」の展示解説も行われます。
 
 窓から昨日と同じ生駒山の方向を撮りました。午前11時半頃。


   台風の後


 今日の方が雲があって、雨も降っています。
 台風は、各地で爪痕を残しました。改めて天災の恐ろしさを感じさせられます。





博物館実習、やってます






 8月下旬から9月上旬にかけて、大阪歴史博物館では、博物館実習を行っています。
 学芸員資格を取得する大学生に対する実習です。


   博物館実習
    博物館実習 第1研修室にて


 3班に分けて行っていて、各班4日間ずつ。1班の参加者は、20名余りです。都合60数名で、昔に比べると、半減しましたね。
 関西の博物館では、1週間(月~金で、休館日があるので4日間)というスケジュールのところが多いと思います。他地域では、もっと長いところや少人数のところもあるようですが…
 私たち受け入れ側も、少人数でやれた方が学生さんの利益になるとは思うのですが、希望校が多くて、この人数になります。期間については、長期間になるとお世話するのが大変で、この長さが限界かもしれません。 

 実習は、どんなカリキュラムになっているのか?
 その一端を紹介してみます。


 【カリキュラム例】

 第1日  オリエンテーション
      博物館の概要・施設見学
      広報の役割と実際
      工芸資料の取り扱いと展示
 第2日  文書の取り扱いと展示
      ボランティアの役割と実際
      民俗資料の取り扱いと展示
 第3日  考古資料の取り扱いと展示①
      写真撮影の方法
      遺跡の保存と利用
 第4日  文化財の分析と保存処理
      梱包と輸送の実際
      考古資料の取り扱いと展示②
      実習のまとめ
   

 <取り扱い>は、実際に資料を触ってもらいます。資料の種類は班によって変わり、美術工芸・民俗・考古・文書・建築・近代資料など多様です。
 学生さんに聞いていると、大学でも取り扱いはやるのですが、1コマとか3コマとか、ごくわずかのようです。1、2回やっただけでは、なかなか覚えられませんね。また、扱った掛軸も、絵も字もかかれていない“真っ白”な軸だったり… 当館では、いちおう昔の軸でやってもらっていますので(もちろん館蔵資料ではない練習用ですが)ご安心を。

 将来の学芸員を育成するのも、私たち博物館の仕事です。


 なお、当館への実習希望の申し込みは個人ではできませんので、大学のご担当にお問い合わせください。





台風12号で臨時休館






 昨日から台風12号が接近し、今朝は大阪市内でも暴風警報が発令されていました。

 当館も、午前中から臨時休館となり、結局午後も閉館。催し物も延期となりました。
 臨時休館は7月に引き続き、今年2度目です。


   台風


 事務所の窓から、東の方を撮った写真です。午後2時半頃。遠くに見えるのが生駒山です。
 雲も薄く、雨は余り降っていませんが、風が強いですね。

 明日は、警報が解除されていれば、ふだん通り開館します。





学芸員実習に思う(3) ~ 学芸員の仕事、その昔 ~






≪仕事のイロハ≫

 私が新人だった頃は、先輩たちから仕事を学ぶということが日常的に行われていた気がします。

 今日担当した学芸員実習では、掛軸の扱いを行ったのですが、新米時代には、掛軸を如何に上手に巻くかを先輩に教わります。掛軸は、巻き上げていくと、いわゆる“たけのこ”になってしまう。つまり、片側に突き出して巻いてしまうのです。親指で感じをつかみながら巻いたらいいと言われても、なかなかそれができないのでした。
 いま学生さんを見ているとわかるのですが、みんな一番最初から一所懸命きつく巻いていくんですね。この真面目さが曲者。程度な緩さを持たせることも必要です。でも、若いからキッチリやろうとするんでしょうね。それが若さの特権でもあるのですが。

 資料写真を撮る訓練もしました。タングステンの照明を当てて、照度計で計って、しっかりやったつもりが、現像が上がってくると、どこかテカっている。
 ある日のこと。錦絵の複写をやるのですが、いくらファインダーをのぞいても、四角い錦絵が台形に歪んでしまう… んー、と困っていると、たまたま出入りの写真屋さんが写場に入ってきました。どうしても、ちゃんとならないんですよ。写真屋さんは代わってファインダーをのぞいて、ちょっと三脚を直したかと思ったら、それで完了。のぞいてみると、きっちりと四角い錦絵が目の前にあるのでした。

 展示室でパネルを打っていても、どうしてもピンや釘が曲がってしまう。単純なことだけれど、きっちりやるのは、とても難しい。 


≪“熱い”仕事≫

 先輩学芸員によく言われたのは、“興味・関心の幅を広く持て”ということです。
 学芸員は、自分の専門分野に限らず、いろんな資料を見たり、企画を担当したりします。そのとき、“自分はこれは嫌いだからやらない”では務まらないというのです。
 確かに、実際仕事についてみると、自分の希望にかかわらず、さまざまなことが舞い込んでくる。というより、自分の希望に添わないことの方が多いような気もします。
 それは、専門業務以外の業務もやらなければならない、という点でも同じでしょう。
 とりあえず、守備範囲は広く、が身を助けるという感じ、特定分野にだけ“熱い”のも困りものです。

 その頃、毎夏、名物行事のようにやっていたのが、土器作り教室です。
 夏休みに子どもたちを集めて、縄文土器や弥生土器みたいな土器を作ってもらうのです。
 会場は、3階の講堂でした。粘土や水を使いますから、汚れてもいいように事前にブルーシートを貼って準備をします。
 子どもと一緒にわれわれも作るのですが、案外上手にできたりして喜んだりする。

 問題は、土器焼きです。
 博物館では焼けないので、和泉市の信太山青少年野外活動センターに行って焼くのです。ここは、言ってみればキャンプ場です。キャンプファイヤーのように、材木を井げたに組んで、焚き火をやるのです。そのなかに、土器を入れてじっくり焼いていきます。
 しかし、これをやるのは真夏です。暑い日中に灼熱の炎に焼かれながら、火の番をして、土器がうまく焼けるようにする。こんな熱い経験も珍しく、若い学芸員も疲れ果てるのでした。

 それでもやっぱり、子どもたちが嬉しそうに焼き上がった土器を手にしたときは、われわれも嬉しいんですね。
 こういう熱い仕事もありました。


≪卓球台≫

 地下のフロアは南北に長いのですが、その中央に「荷解き」と呼ばれるスペースがありました。博物館の裏手がスロープになっていて、そこに通常バックでトラックを付けます。トラックから降ろした荷物を荷捌きする場所がここです。

 ここに、卓球台があったのです。

 私もここで卓球をやったことがあるのですが(そして昔はたぶん本当の卓球台だったのでしょうが)、その台は梱包された資料をほどいたり、逆に梱包したりする場所なのでした。
 いまから考えれば、なぜ卓球台でやっていたのか。単にちょうどよい大きさだったからなのか。私が入った頃から、すでに使っていたので、理由はよくわかりません。まあ、たいした理由もない気がするのですが。

 現在では、資料の梱包等には、ちゃんとした作業台を用いています。でも、その台は二つに折り畳めるタイプで、なんとなく卓球台に似ているのが不思議なのです。

 これは一例でしたが、その頃は、なにかにつけて間に合わせ、あり合わせで仕事をしていたような気もします。

 パソコンも、まだまだ普及途上で、ようやくNECのPC9800シリーズが名簿管理などに使われていました。資料写真は、プリントが厚紙のカードに貼付され、キャビネットに保管されていました。デジカメなど、もちろんなかった時代です。 

 とりとめもない懐古談でした。3回も書きましたので、このくらいでやめておくことにしましょう。





学芸員実習に思う(2) ~ 学芸員になった頃 ~






 ≪研修を受ける≫

 学芸員に採用された私ですが、いきなり博物館で仕事というわけではありませんでした。

 4月1日、中之島にある市役所の、さほど大きくない会議室で、教育委員会に採用された新人に辞令が手渡されました。
 そのあとは、市の職員として、研修を受けることになったのです。

 研修所は、旭区の中宮というところにありました。関目駅から10分ほど歩いたところです。いまでは阿倍野区に移転しています。
 初日は、研修所近くの小学校に行き、講堂に集まって市長の話を聞きました。当時の市長は、西尾正也さんでしたが、もう亡くなりましたね。でっぷりとした好々爺という感じの人で、交通局長などを経て、市長に就任していました。
 西尾さんは、市に就職して、当時の清掃局に配属されたそうです(調べると1950年のことでした)。その頃は、「肩曳き車」をひきながらゴミを集めたそうで、しんどい仕事だったそうです。市長講話で私が覚えているのは、そのくだりだけですが、いまになっても忘れられない話です。

 研修所での座学の内容は、もうすべて忘れてしまいました。
 逆に記憶に残っているのは、2、3回実施された「現場」の見学です。大阪市はさまざまな事業を実施しており、数多くの事業所がありますが、そのなかのいくつかをバスに乗って見て回るのです。
 浄水場で当時開発中だった高度処理浄水を飲ませてもらったり、抽水所(ポンプ場)でトラックが入れる巨大エレベータに乗ったり、検車場で地下鉄のメンテナンスを見たり。こんな仕事場があるのかという驚きの連続でした。
 私はいつも、博物館に見学者があると、4トン以上積める大きな荷物用エレベータに乗ってもらうのですが、それはこの研修時の自分の驚きから発しています。

 この現場見学は、本当に為になりました。


 ≪職場に配属されて≫

 3週間ほどの研修が終わって、4月下旬から博物館に配属されました。
 博物館は、大阪城の本丸内にありました。住所は、中央区大阪城1-1です。

 先輩が何かと教えてくれたのですが、とにかく最初の2カ月くらいは、やる仕事がなく、机の前でぼんやりしていたことを懐かしく思い出します。
 
 朝は、割と早く出勤していました。
 だから、大きなコーヒーメーカーで、豆を挽いて水を入れて、みんなの分のコーヒーを沸かしていました。ヤカンでお湯も沸かしていた記憶があるので、ポットがあったのでしょうか。
 先輩たちが出勤してくると、みんなそのコーヒーをカップにいれて飲みます。古いソファがあって、そこに座って雑談しながら飲むのでした。出入りの写真屋さんや美術輸送の人が来たときもコーヒーを出して、しばし歓談するのです。牧歌的な風景ですが、そういうなかで仕事について教わることも多いわけです。

 仕事が終わった夕方も、大勢連れだって帰っていました。
 私はJR森ノ宮駅を使っていましたが、そちら方面の学芸員が一緒になって、お城の中をぞろぞろと15分ほど歩いて帰るのです。いまでは、ちょっと想像できない光景ですね。 


≪古い建物のなかで≫

 博物館は、昭和6年(1931)に竣工した旧師団司令部の建物を転用したものでした。地上3階、地下1階で、1階は事務所と常設展示室、2階は常設展示室と会議室、3階は特別展示室と講堂など、地下に収蔵庫や写場、電気機械室がありました。

 建物が古くて、不便なことは一杯ありました。講堂で講演会するにも、いちいちパイプ椅子を百脚以上並べていたのですから、ご苦労なことでした。
 展示ケースのカギが閉めにくくて(ケースが古いのでゆがんでいる)困ったこと、輪転機が何度も紙詰まりを起こしてイライラしたこと。トラブルは、得てして夜独りのときに起こるもので、泣くに泣けない心境でした。
 他人からみれば幽霊が出そうな古くて暗い建物でしたが、独りで残業していても怖いと思ったことは一度もありませんでした。一種の慣れだったのでしょう。帰り道も、真っ暗ですが、こちらも案外平気でした。

 そんな市立博物館も、2001年3月末に閉館しました。
 もう10年も経ったのですね。


 (この項、つづく)





学芸員実習に思う (1) ~ 学芸員の採用試験を受けた ~






 いま、大阪歴史博物館でも、学芸員実習の真っ最中です。
 
 学芸員になりたい学生さんは、全国に大勢おいででしょう。
 昔語りで恐縮ですが、なにかの参考になればと思い、私が学芸員になった頃のお話をしたいと思います。


≪先輩からの電話≫

 私は、1980年代後半から90年代初めにかけて大学院に在籍していました。
 その頃は、いわゆる“バブル”の好景気で、学部の同級生は文学部にもかかわらず証券会社に就職したりしていました。私は就職活動もせず、大学院に進んでいました。
 修士論文を書いて、後期課程に進んだ2年目のある秋の日、先輩から電話が掛かってきたのです。

 「大阪の博物館で、近代史の学芸員を募集している」

 最初はピンときませんでした。当時、近代史専門の学芸員は、関西の博物館にはほとんどいないような時代でした。
 そして、締め切りまであとわずかだという。
 とりあえず、その「大阪市立博物館」に電話を掛けて、速達で願書を送ってもらうことにしたのです。

 先輩ご夫妻は、すでに専門職としてこの業界におられたので、大阪市博の募集をご覧になったのでしょう。私は、その募集を見ていませんでしたから、先輩の有り難い電話がなければ、いまこの仕事に就いていなかったわけです。

 願書は持参でもよいというので、着いたらすぐ記入して、大阪城のなかにある博物館に持っていきました。かつて「写された大阪」など特別展を見に行ったことがあるので、場所は知っていたのです。

 鉄の古いドアを開けると事務所の窓口があって、後に一緒に働くことになる庶務課のHさんに願書を手渡しました。締め切り最終日でした。


≪試験を受けた≫

 試験前には、短期間ですが、受験勉強をしました。大阪の歴史の本を読んだり、公務員試験の問題集をやったり。

 試験は、12月の初めに行われたような気がします。会場は、中之島の大阪市役所でした。
 受験生は28名で、なかなか多いなあ、と思ったものですが、私より後輩は50人などと、もっと高倍率だったようです。私は後ろから3番目の受験番号でしたから、最終日に出した私よりも後で願書提出した人もいたわけです。

 まずは、筆記試験です。
 専門の問題は、歴史用語の漢字の読みを問うもの、大阪の歴史事象を簡単に説明するもの、引札(チラシ)に書かれている崩し字を読むもの、そして論述でした。論述の問題は、さすがに忘れてしまいましたが、博物館の社会的役割に関するものだったような気もします。
 これに加え、公務員試験と同じような一般常識に関する試験がありました。まあ、公務員になるのですから当たり前です。SPIというのでしょうか、簡単な足し算を一杯やるみたいな、適正検査も受けました。

 そのあと、昼休みを挟んだような気がするのですが、筆記の結果が発表されました。私は運よくパスし、面接に臨むことになりました。
 面接試験は、私を含め3人が受けました。目の前に、試験官が5人ほど座っています。あとから思えば、役所の人事の人のほかに、館長と学芸課長が同席していました。
 質問は簡単なもので、自分の性格を一言で言うとどんなものですか、といったような問いでした。僕は「まじめで几帳面な性格です」みたいな、ほんまかいなという答えをしたのを覚えています。まあ、隣の人も似たような答えをしていたのですが。
 いまから思えば、やたらに真面目に応対していたように思います。若いって、いいことですね。


≪結果の通知≫

 一緒に面接を受けた人とは、待ち時間などに話していました。一人の受験者は近世史の専門だと言っていました。受かる“確率”は3分の1、あるいは近代史選考者を選ぶということでいうと、2分の1です。

 通知は、クリスマスの日に届きました。余りにも押し詰まった時期ですが、なんとか年内に決定しようということだったのでしょう。後に仕事で使うようになる大阪市の封筒に入った、じつにぺらっとした通知文で、残念賞みたいな薄さでした。しかし、結果は合格だったのです。

 12月末とは遅い時期と思ったのですが、それ以降に行われた採用からすると、年内に決まるとは随分早い決定でした。

 私は、いわゆる増員での採用で、これまでいなかった近代史専攻の学芸員を採るということでした。
 その後、バブル景気は崩壊し、増員での採用は行われなくなりました。いまでは、欠員補充でさえ汲々とする有り様です。個人的にいえば、いい時期に採用してもらったわけです。

 正直なところ、私はどうしても学芸員になりたいと思っていたわけではありませんでした。まあ、“でもしか”学芸員かも知れません。またそれ以上に、大阪で働くとは思ってもいなかったのです。京都生れの京都育ち、大学も京都だった私。大阪と縁ができるとは、想像外のことでした。それが、こんなに長く、毎日大阪で大阪のために仕事をしているのですから、人生って不思議なものですね。

 
 (この項、つづく)
 




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なにわ歴博

Author:なにわ歴博
大阪歴史博物館

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