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古書市に行く






 今日は、古書市に行ってきました。


   古本市


 学芸員のなかには、仕事柄、古美術や古書に関心のある人も多く、自分でたくさんコレクションしておられる方も見受けられます。
 
 私は、特に収集癖はなく、調べ物などに必要な資料として古書を求めています。


   古本市


 お寺の境内で行われています。
 朝なので、比較的空いていますね。

 今日は余り時間がなかったので、そそくさと物色しました。

 インターネットでも古書が買える時代ですが、こういうところで未知の本に出会えるのが、また愉しいのですね。

 今日求めたもので、少し面白かったのは、京都府立京都第二高等女学校校友会編『近畿地方修学旅行案内』(大正13年初版、昭和4年再版)。
 女学校の社会見学用ガイドブックですが、ほとんど京都について触れるなか、若干5ページだけ、大阪について記述しています。そこに書かれていることが、とてもおもしろい!
 それは、大阪の特徴について記述した部分で、少し紹介してみましょう。

 ○大阪の名物は橋と煙突となり。○大阪自慢の一は義太夫なり。○大阪児は実行の民なり。○大阪は昆布の都なり。○大阪は広告の都なり。○大阪は没趣味の処なり。○東京が昼の都なれば大阪は夜の都なり。○大阪は分量主義なり。○大阪は海の都海運の都なり。○専門街の多きは大阪の特色なり。○大阪は商業魂の坩堝(るつぼ)なり。(後略)

 これは、横山達三という人の『新人国記』(1911)からの抜粋だそうです。
 なかなか、的を射た評で舌を巻きます。

 横山達三(健堂)は、東京帝大で歴史学者・三上参次に師事し、「黒頭巾」という筆名で読売新聞に「新人国記」を連載したそうです。大阪の天王寺中学で教鞭をとっていた時期もあるようです。

 大阪自慢は義太夫(節)だとか、昆布の都だとか、夜の都だとか、一々的確な指摘ですね。明治末の大阪を評した言葉として記憶に留めておきたいものです。一度原典を調べてみましょう。

 みなさんも、たまには古書市・古書店をのぞかれてはいかがでしょうか。




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大阪マラソンを50m上から見る!






 10月30日は、初めての<大阪マラソン>開催!

 参加者は、3万人とか。

 スタート付近にある大阪歴史博物館。
 10階の窓から、眺めてみました!


   大阪マラソン

 
 開館前の9時すぎの様子。

 道の奥まで、ずっと人、人、人…
 
 見たことのない物凄い光景でした。






鉄眼禅師と一切経版木 ~宇治・宝蔵院を訪ねて~






 休みを利用して、歴史ウォークと見学会再下見を兼ねて、宇治へ行ってきた。

 前に、黄檗山萬福寺を訪れた折は、台風接近で諸堂は閉ざされ、十分拝観できなかった。今回はその再訪でもある。

 萬福寺に入山する前に、隣接する塔頭・宝蔵院を訪れた。


   宝蔵院


 前に看板があり、<重要文化財「鉄眼版一切経版木」収蔵庫>とある。
 門をくぐり、板木を叩くと、ご住職が出て来られる。版木の拝観を乞うと、裏手にある収蔵庫へ案内くださった。
 写真の奥に写っている鉄筋コンクリート造の建物が収蔵庫である。

 収蔵庫内に入ると、暗いフロアには、ずらっと棚が並び、そこにびっしりと版木が収められている。サクラ材でできた版木は、約6万枚あるという(そのうち約48000枚が重文指定)。

 鉄眼禅師は、江戸前期、仏教の経典を集成した大蔵経(一切経)を印刷することを志し、多くの信者の寄付を得て、延宝6年(1678)、事業を完成させた。7000巻ほどもあるが、印刷に用いる版木は6万枚にのぼる。
 近世以前、大蔵経は中国からもたらされていたが、江戸初期に幕府の援助を得た天海により版行がなされた。鉄眼の版はそれに次ぐものであった。
 実際の版木も拝見した。大きさは、タテ26cm×ヨコ82cmで、かなり横長である。左右に2丁分彫ってある(今ふうに言えば、4ページ分になる)。裏面も使われているので、1枚の版木で4丁分彫ってあることになる。
 
 6万枚といってもイメージしづらいが、1フロア一杯に高い棚が並び、さらに吹抜けの上階にも棚がある。彫るのも大変だが、これを刷ると思うと気が遠くなる。
 ところが、奥に案内していただくと、1人の男性が黙々と版を刷っておられた! 
 鉄眼の版木は今も活きており、経典が刷り続けられている。
 プロの刷り師さんなので、当然手際はよく、1枚刷るのにかかる時間は30秒ほどでしかない。宇和泉貨紙という黄色い用紙に、くっきりと印刷される。

 ご住職と話をしながら、版木と作業を拝見し、ずいぶん勉強になった。

 最後に、鉄眼禅師の頂相(お姿の木像)をお参りした。亡くなる前年に造られた寿像だから、お姿をよく伝えているのだろう。弟子の松雲元慶禅師(東京・目黒の五百羅漢寺の開基。鉄眼禅師は同寺の開山)の作になる。
 
 ここまで、「鉄眼」という名を出してきたが、大阪の方であれば「鉄眼寺」という寺名をご存知だろう。「鉄眼寺」は正式には瑞龍寺といい、難波の元町にある。この寺を鉄眼禅師が中興されたのである。つまり、大阪とも大いにゆかりがあった。

 帰り際に、禅師のされたことが、戦前の『尋常小学国語読本』巻11に載っていたということを聞き、頒布されている複写を求めて、帰路読んでみた。
 「鉄眼の一切経」というもので、大正から昭和初期のこどもたちが読んだものという。おそらく私の父母も読んだものだ。長くなるが、引いてみよう。(※1929年に文部省が発行したものであり、歴史資料として読まれたい)



 第二十八課  鉄眼の一切経

一切経は、仏教に関する書籍を集めたる一大叢書にして、此の教に志ある者の無二の宝として貴ぶところなり。しかも其の巻数幾千の多きに上り、これが出版は決して容易の業に非ず。されば古は、支那より渡来せるものの僅かに世に存するのみにて、学者其の得がたきに苦しみたりき。

今より二百数十年前、山城宇治の黄檗山萬福寺に鉄眼といふ僧ありき。一代の事業として一切経を出版せん事を思ひ立ち、如何なる困難を忍びても、ちかつて此のくはだてを成就せんと、広く各地をめぐりて資金をつのる事数年、やうやくにして之をとゝのふる事を得たり。鉄眼大いに喜び、将に出版に着手せんとす。たまたま大阪に出水あり。死傷頗る多く、家を流し産を失ひて、路頭に迷ふ者数を知らず。鉄眼此の状を目撃して悲しみにたへず。つらつら思ふに、「我が一切経の出版を思ひ立ちしは仏教を盛にせんが為、仏教を盛にせんとするは、ひつきやう人を救はんが為なり。喜捨を受けたる此の金、之を一切経の事に費すも、うゑたる人々の救助に用ふるも、帰する所は一にして二にあらず。一切経を世にひろむるはもとより必要の事なれども、人の死を救ふは更に必要なるに非ずや。」と。すなはち喜捨せる人々に其の志を告げて同意を得、資金を悉く救助の用に当てたりき。

苦心に苦心を重ねて集めたる出版費は、遂に一銭も残らずなりぬ。然れども鉄眼少しも屈せず、再び募集に着手して努力すること更に数年、効果空しからずして宿志の果さるゝも近きにあらんとす。鉄眼の喜知るべきなり。

然るに、此の度は近畿地方に大飢饉起り、人々の困苦は前の出水の比に非ず。幕府は処々に救小屋を設けて救助に力を用ふれども、人々のくるしみは日々にまさりゆくばかりなり。鉄眼こゝにおいて再び意を決し、喜捨せる人々に説きて出版の事業を中止し、其の資金を以て力の及ぶ限り広く人々を救ひ、又もや一銭をも留めざるに至れり。

二度資を集めて二度散じたる鉄眼は、終に奮つて第三回の募集に着手せり。鉄眼の深大なる慈悲心と、あくまで初一念をひるがへさざる熱心とは、強く人々を感動せしめしにや、喜んで寄附するもの意外に多く、此の度は製版・印刷の業着々として進みたり。かくて鉄眼が此の大事業を思ひ立ちしより十七年、即ち天和元年に至りて、一切経六千九百五十六巻の大出版は遂に完成せられたり。これ世に鉄眼版と称せらるゝは、実に此の時よりの事なりとす。此の版木は今も萬福寺に保存せられ、三棟百五十坪の倉庫に満ち満ちたり。

福田行誡かつて鉄眼の事業を感歎していはく、「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり。」と。



 鉄眼禅師は、自らのなすべきことをよく弁えておられたのだろう。

 宝蔵院への見学者の3分の1は印刷関係者、もう3分1はフォントなどを開発するデザイン関係者なのだそうである。
 明(ミン)からもたらされた大蔵経によって彫られた鉄眼版は、「明朝体」のもととなったからである。






秋の田の…







   秋の田んぼ


   ひろびろと日の落ちかゝる刈田哉   子規


 まさに、この句のあらわすような秋の夕暮れ。

 わらの匂いがふっとして、こどもの頃を思い出しました。
 あの頃、刈入れの済んだ田んぼで、よく遊んだものです。

 今日はなぜか、百人一首の巻頭歌(秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ)を思い出したりもして、めっきり秋の気分ですね。

 10月もあと1週間。紅葉の季節も間近です。

 大阪歴史博物館も、開館10周年の記念日(11月3日)が徐々に近づいてきます。





<れきはく市場>開店中です !!






 10周年記念の一環として、先週末からオープンしている<れきはく市場>。本日も、開店中です!


   れきはく市場

   れきはく市場



 私は、今日は“店番”です。いま、お店でこれを書いています(笑)

 今朝も、団体のお客さまが大勢お見えで、お店をのぞいてくださっています!

 どんな商品があるかというと…


   れきはく市場
   イチオシのオリジナルチョコ(チロルチョコ)3個入り200円


   れきはく市場
   オリジナルクッキー 350円/150円


   れきはく市場
   缶バッチ 大200円/小100円


 ちなみに、他のオリジナル商品もご紹介しておきましょう。

 ・花柄エコバッグ     300円
 ・10周年エコバッグ   800円
 ・古地図(複製)     1500円
 ・ピッタコクリップ     250円
 ・マグネット        150円
 ・かがみ          350円


   れきはく市場
   10周年エコバッグ(宝尽し文様)


 いかがでしょうか。

 10月30日(日)までの土曜・日曜と、11月3日(祝)に販売しています。
 一度のぞいてみてください!!




学芸員の秋は忙しい!






 秋は、博物館にとっては“書き入れ時”でもあり、忙しい季節でもあります。

 私たち学芸員も、なかなか多忙な時期ですね。

 秋は必ず展覧会がありますし、それに伴う講座などの催事もあり、また気候がよいので野外に見学会に出掛けたり、何かとやることが多いのです。

 今年の大阪歴史博物館は、10周年記念行事も行っていますから、10月後半から11月にかけては、催事も目白押しで、館をあげての大わらわになります。

 そして…
 その裏側で、将来の展覧会の計画を練っていたりもする。
 他の機関からの講演依頼があれば、話に行ったりもする。
 修学旅行生が来たら、そのお相手もする。

 落ち着くのは、あと2か月くらい先、つまり年末頃になるのか…

 と言ってみたけど、年明け早々の1月7日からは「柳宗悦展」があった! と気づいたりする。

 なんだか、近年博物館は年中忙しいですね。
 萬国の学芸員諸氏! カラダに気をつけながら頑張りましょう!!






初登場から普及するまで -カップめん・コンビニからみる-






 文芸評論家の川本三郎氏が、1971、72年を舞台とする自作「マイ・バッグ・ページ」の映画化に関して、次のようなことを述べていた。


 [映画の内容には口出ししなかったが] ただ、脚本を読ませてもらった時に、大仰にいえば時代考証のようなものは少しした。
 たとえば、妻夫木聡さんが演じる記者が新聞社のなかでカップめんを食べると書かれている。
 この簡便食が売り出されたのは71年だがその時点ではまださほど普及していなかったと思う。少なくとも新聞社のなかで食べたことはない。こういうところは訂正してもらった。 (「『っす言葉』と『お疲れさま』と」日本経済新聞 2011年10月16日付)


 1971年(昭和46年)に発売されたカップめんとは、カップヌードルを指している。
 映画化に際して、山下敦弘監督や脚本の向井康介さんは、自分たちが生まれる5年ほど前のことを資料をみて再現していったのだろうか。
 1971年といえば、万博の次の年。私は小学生だったが、その頃、やはりカップヌードルを食べた覚えはない。

 似たようなことは、コンビニエンスストアにもいえる。
 コンビニエンスストアが日本でいつ始まったのか、この解釈は分かれるようだが、やはり1970年(昭和45年)前後、あるいは70年代前半という。コンビニの代表格とされるセブン・イレブンの開店は、1974年(昭和49年)である。関西で幅広く出店しているローソンの第1号店は、1975年にできたそうだ(豊中市の桜塚店)。

 この年表的知識をもってすると、1970年代後半にはコンビニは日常生活によく見られる光景だったと思えてくる。
 しかし、私の経験からは、そういうことは全くなかった。

 1980年代に高校・大学時代を過ごした私は、コンビニに行った記憶はない。たとえば、部活の帰りに買い食いに行く店といえば、町のパン屋さんだった。
 高校の帰りによく立ち寄ったのは、住宅街のなかにポツンとあった「M」というパン屋さんで、年配のご夫婦が経営していた。パンやアイスクリームを売っていて、私たちはその店でいつもアイスを買って、店の前で食べていたのだ。
 大学に入っても(京都市内だったが)、大学の周辺にコンビニはなかった。買物や食べ物は、だいたい大学生協のお世話になっていた。
 そういえば、あの頃、そろそろ牛丼店ができはじめ、大学の近くに「N」というチェーン店ができたと思う(ただし、私は行かなかったが)。
 下宿していた友人のところによく行ったが、買い出しは近所のパン屋さんや酒屋さんなどの個人商店だった。
 
 いずれにせよ、日本におけるコンビニは、誕生から10年ではほとんど普及していなかったといえる(少なくとも私の経験上は)。

 歴史の研究を行うとき、このような年表的知識によって物事を判断しがちだが、より慎重に判断しないといけない。

 最後に、川本氏の同じ文章から引用して締めくくっておこう。


 この時、彼[妻夫木聡が演じる記者]が飲んでいるビールの銘柄が珍しい。サッポロのラガー。ラガーといえばキリンだが、彼が飲むのはサッポロ。ラベルに赤い星が見えるのでそれと分かる。北海道ではよく見るが東京ではまず見ない。
 なぜサッポロのラガーにしたのか。妻夫木さんの、あるいは山下監督のお気に入りのビールなのだろうか。 (同前)






便利なイヤホンガイドで、醍醐寺拝観






 今日は、ある見学会に加わって、京都・醍醐寺を拝観してきました。


   醍醐寺


 暑いくらいの快晴でした。

 三宝院、金堂、五重塔、霊宝館(宝物館)など、国宝・重文が目白押しですね。


   醍醐寺
     唐門(国宝)

   醍醐寺
     五重塔(国宝)


 専門家の解説を聞きながら、有意義に拝観しましたが、説明を聞く秘密兵器はこれ!


   音声装置


 イヤホンガイド。
 ケンネットという会社がレンタルしている機器で、1台あたり1,000円也。
 解説者がマイクで話すと、イヤホンを通して説明音声が聞けるというものです。壁などがあると電波が途切れるようですが、なにもなければ100mくらい大丈夫なのでは。

 解説者は、ささやくくらい小さな声で説明できますから、他の拝観者などがいる場所でも、便利に使用できます。
 操作も簡単で、首掛け型ですが軽量なので負担になりません。

 今日は、60名くらいが一度に同じ解説を聞きました。とても重宝します。

 私たち解説する側の感覚では、いわゆるメガホン型の拡声器は、音が大きくて周囲の方に迷惑を掛けますし、説明が筒抜けで恥ずかしくもあるのです。
 でも、この装置だと、そういう問題点も解決できます。

 一度、うちの博物館の催しでも使ってみたいですね。
 ただ、コストが高いのが難点なのですが…

 詳しくは、ケンネット ホームページ をどうぞ。




10周年記念<もっとワクワク レキハク!!>スタートしました!






 大阪歴史博物館は、今年で10周年!
 10月12日より、10周年記念事業がスタートしました。


   10周年
    藤浩志氏の作品展示(8階)


 この土日からは、オリジナルグッズを販売する<れきはく市場>もオープンしています!


   10周年

   10周年
    オリジナルエコバッグ

   10周年
    オリジナル“チロルチョコ”


 チョコは3個セットで、包装紙に「京大坂図屏風」の絵柄などをプリントしています。


   10周年
   複製古地図(新撰増補摂州大坂大絵図、1687年=本館蔵)


 <れきはく市場>は、このあと 10月16日(日)、22日(土)、23日(日)、29日(土)、30日(日)、11月3日(祝)に開店します。
 一度のぞいてみてください!!





特別展「心斎橋 きもの モダン」内覧会を開催しました!







   内覧会


 月曜日から陳列作業をしていた特別展「心斎橋 きもの モダン -煌めきの大大阪時代-」、本日、報道向けの内覧会を開催しました。


   内覧会


 今回は、タイトルにもあるように<きもの>も多数展示されますが、きものを着た女性を描いた絵画も展示されています。
 島成園、橋本花乃など、女性画家の作品もありますし、北野恒富や小出楢重、小磯良平の作品もあります。


   内覧会


 もちろん、きものもバッチリ!


   内覧会


   内覧会


 これは、こどものきもの。かわいいですね。

 化粧品なども展示されています。


   内覧会


 特別展「心斎橋 きもの モダン -煌めきの大大阪時代-」は、10月15日(土)より開催されます!

 詳しくは、大阪歴史博物館ホームページ で!!






特集展示「古文書からみる大坂の町」、開催中です!






 先週から、特集展示「古文書からみる大坂の町」が始まりました。


   古文書展


 舞台は、江戸時代の大坂。
 ひとびとのどんな姿が浮かび上がってくるのか?


   古文書展 会場風景


 担当学芸員の手によって、古文書が分かりやすく読み解かれています。

 私が注目した資料は、これ!


   古文書展
   御加番下宿諸控(本館蔵、小山敏子氏寄贈)


 大坂城を警備する武士が交代する時の資料です。

 地方から交代のため大坂に来た武士は、交代待ちの日々、市中の町家に宿泊したそうです。
 武士が泊まった家では、当然食事も出すわけで、その献立を書いたのが、この古文書です。 

 文政2年(1819)7月から8月のこと、現在の福島県にあった湯長谷(ゆながや)藩・内藤家の家臣たち4名が宿泊しました。

 上の写真は、彼らに出した7月29日の献立を記した箇所です。
 いったい、何を食べているんだろうか? 興味津々…

 まず、朝食。
 
 メインは、スズキ(鱸)の塩焼き。
 ほぉ、焼き魚ですね。おいしそう。
 そして、みそ汁。朝ごはんらしくて、いいですね。

 次は、昼食(中食)。

 こんにゃく、ゆば、椎茸にしめ…、そして「坐禅豆」? なんだ、これは?
 
 調べてみると、小豆や大豆を甘く煮しめたもの、とあります。
 そうか、昔からよく食べるやつですね。ちょっと豆にしわが寄っていて。典型的なお惣菜メニュー。
 黒豆でやることもありますよね、おせち料理に入っています。

 昼ごはんは、質素でほっとしますね。
 でも、お昼も家で食べたのか… できれば外食してほしい(笑)

 さて、最後は夕食。

 まず、茶めし。これは、奈良名物の茶がゆみたいなもの。
 そして、生貝や長芋… ウスクズ(薄葛)と書いてあるから、とろっとした「あん」をかけたのでしょう。
 それに、小蕗(フキ)ですね。

 ちなみに、翌8月1日は、朝がタイの切身いり付け、小かぶら汁、カツオ生酢。
 昼が、なんと湯豆腐!
 夜が、イセエビ、山のいも、いわたけ、イワシのぬたでした。

 焼物、煮物、あえもの、めし、汁物など、バラエティーに富んでいて悪くない食事ですね。ふだんの町家の献立よりも「もてなし」ということで、少しグレードアップしているのではないでしょうか。

 でも、東北武士の口には合わない味付けで、みんな顔をしかめて食べたかも知れませんが…

 古文書も、想像力を働かせて読んでみると、おもしろいですね!!

 特集展示「古文書からみる大坂の町」は、12月5日(月)まで、大阪歴史博物館・8階・特集展示室で開催中です!
 学芸員による展示解説もありますので、ぜひご来館ください。






朝ドラ「カーネーション」と尾野真千子さん






 今日は当館で「優秀映画鑑賞会」という映画の催しがあり、そのあと、関係者の方と話をしていました。そのなかで、女優の尾野真千子さんの名前が出てきました。


   NHkステラ
   NHKステラ 10月1日号


 当館の隣のNHK大阪放送局で収録している朝の連続テレビ小説「カーネーション」。
 その主演が尾野さんで、今日(10月8日)の放送分から、成長した主人公・糸子役として登場しました。時代は、昭和2年(1927)。最初の場面は、朝の寝起きシーン! 栗山千明さんと一緒に、倉敷・美観地区でのロケもありましたね。

 尾野さんは、大阪歴史博物館にも、2度ほど来館されたことがあります。河瀬直美監督の映画「萌の朱雀」上映会の際と、<おおさかシネマフェスティバル>の際だったと思います。
 とても感じのいい方で、われわれスタッフにも丁寧に挨拶してくださるのでした。シネマフェスティバルで助演女優賞を受賞されたときは、ご両親と一緒に来場され、ご家族とともに喜んでおられました。
 彼女は奈良県出身なのです。

 朝ドラの主演はオーディションで決まったのですが、スーパーで買い物しているときに報せを聞いて、大泣きしてしまったと、インタビューで答えていました。

 同じ関西人として、伸び盛りの実力派女優、尾野真千子さんの活躍に期待しています!




<心ぶら>その2






 村嶋帰之(むらしまよりゆき)は、世相や社会の底辺を鋭くルポルタージュした人物で、その出世作は『ドン底生活』です。著名な横山源之助など都市下層社会に関心を持ちルポした人は多いのですが、村嶋もその一人で、大正・昭和初期に数多くの著作を残しています。

 今回は、彼の『カフエー考現学』(日日書房、1931年)から、<心ぶら>に関する部分を紹介します。テキストは、『村嶋帰之著作選集』第1巻(柏書房、2004年)に収められています。


   心ぶら文献


 村嶋は、夜な夜なこの界隈を歩く人たちに目を向けます。


 それにしても、ここに夜毎、吸はれるやうにして集つて来る散歩人は、どこからどこへ徜徘[さまよ]ひ歩くのか。
 私が丹念に尾行して見たところによると、日本橋畔に電車、或はバス、円タクを捨てた散歩人は、道頓堀界隈に大体一時間半を費やすのだ。
 何処で、どう費やすかは時季によつて相違もあらうが、私の調査した八月、真夏の暑さをさける夜の散策は、道頓堀を十五分、心斎橋で十五分、喫茶店やキヤンデーストアで三十分、戎橋筋に十五分、千日前に十五分、都合一時間半をこの界隈で費やすといふのだ。
 そこで、これ等の散歩人は、どういふ工合に歩くかといふに、殆ど始終、速度を変へないで、同じリズムで歩いてゆく。勿論、立ちどまる場合もあるが、それは多くは活動の看板の前、或は野球のスコアーの掲示の前、それに大阪人の喰ひしんぼうを如実に現はしたものか、食物屋の前で立止る人達が随分多い。この頃よくある食物のサンプルを窓に陳列してあるところなどがそれだ。半えり屋や、洋傘屋などのシヨウヰンドの前で立つよりも、先づ喰べもの屋の前に立つところに、大阪人の特性が窺はれる。
 そして、これ等の散歩人は、余り買物をしない。たゞ飲物をとるか、軽い食物をとるのが関の山だ。


 村嶋は、この盛り場を回遊する人の姿を捉えています。
 男性に着目したのか、半衿や洋傘などには余り興味がないと記していますね。
 余りお金を使わなくても楽しめるところに、この界隈のよさがあったのでしょう。

 つづいて、時間ごとの街の動きを調べています。心斎橋筋に関する部分を抜き出してみましょう。


 やがて盛り場の南端、難波駅から吐き出されるサラリーマンや、サラリーウーマンの行列が[午前]六時半ごろから八時過ぎまで続く。大部分は大丸、十合[そごう]のデパートガールだ。その中に交つて氷屋の車が三十五六貫目もある大きな氷を積んで幾つも幾つも食堂に運び込む。
 そのころからぽつぽつ心斎橋筋道頓堀の商店街は目を覚す。が、飲食店は、南海食堂と難波のムライだけが起きてゐるの外、昨夜の疲れと今日の準備に眠つてゐる。
 九時、大丸の扉が開かれる、客は待ち兼ねた如くになだれ込んでも、まだ朝の心斎橋筋はねぼけてゐる。


 百貨店は午前9時から開店で、今より少し早かったのでしょう。しかし、宵っ張りな心斎橋筋の多くの商店は、まだ開店していないようです。


 正午のサイレンが南五花街の事務所から鳴りひびく。(中略)またもや大丸ガールの後勤の群が北進する。大丸ガールの寄宿舎が南海沿線にあるのだ。
 (中略)
 六時五分--廿[20]分。これは一日の労働を終へた大丸の女子軍が南下する時刻で、これからいよいよ道頓堀は夜のドレスをつける。(中略)九時四十分--十時過ぎまで後勤の大丸ガールの南行が終わる。これを「ライラツクタイム」と称して、わざわざこの時間、心斎橋筋を南行するドン・フアンもゐる。


 “ライラックタイム”。おそらく、昭和3年(1928)の同名のアメリカ映画から取っているのでしょう。コリーン・ムーアとゲイリー・クーパーが主演した恋物語です。いつの時代も男性は…、という感じでしょうか。
 それにしても、モボ・モガが闊歩する心斎橋筋ですが、意外にもデパートガールが多かったようです。


 間もなく劇場寄席のはね時、十時半が続く、この時こそ、一日中での一番の花やかな時間である。芝居帰りの客を拾はうとする自動車群が、難波、千日前、戎橋、心斎橋、大丸横等々各要所要所に巡査のお目玉を覚悟で押しかける。ために人の流れは、あちらでも、こちらでも自動車にせき止められて街頭にあふれる。喧噪! とはこの時刻であらう。
 また食物屋はこの時間に一日中の大部分を売上げる。
 (中略)
 しかし心斎橋筋の丹平薬局奥の喫茶部はすでにこの時分には店を閉じてゐる。
 ついで十時半に丸信二階の喫茶部も山を入れてしまふ。
 劇場寄席帰りの客の流れがとまるころ、いひ換へると十一時ごろ心斎橋筋の商店は店を閉め、明治、森永は客を追ひ出しはじめる。

 
 現在より劇場の終演時刻は遅めでした。その帰り客をつかむ飲食店が多かったことが分かります。道頓堀・千日前と心斎橋筋は、一体となった盛り場だったことが理解できますね。
 村嶋によると、このあとの時刻は「カフエーの天下」だそうです。

 昭和初期の夜の盛り場は「白昼街」となり、街路灯、ネオンサインや電飾、ショーウィンドーの照明、ライトアップなど、電気の時代を実感させる状況でした。
 そのため、現代と同じくらい(あるいはそれ以上の)夜の賑わいが見られたのです。
 
 村嶋の報告を読むと、デパートガールの姿が印象に残りますが、女性が社会で働き始めたこの頃、百貨店は彼女たちが比較的安心して勤められる職場だったのでしょう。しかし、その一方で「カフエーの天下」という深夜の街で働く女性も、また多かったのでした。






<心ぶら>その1






 大阪歴史博物館の特別展「心斎橋 きもの モダン -煌めきの大大阪時代-」、10月15日(土)から開催です!
 ただいま館内では、着々と準備が進行中。来週からは、陳列作業も始まります。

 近代の心斎橋筋は、ショッピングストリートとして賑わいを見せたわけですが、そこにはショーウィンドーをのぞきながら散歩する<心ぶら>という行為がありました。
 東京の<銀ぶら>になぞらえて、そう呼んだのです。ちなみに、<道ぶら>という言葉もあり、これは道頓堀をぶらつくことを指します。

 今回は、2回にわけて、<心ぶら>する人たちが歩くコースを史料に見ていきましょう。

 初回は、北尾鐐之助『近代大阪』(創元社、1932年)に収められた「心斎橋筋の一考察」より。
 まずは、北尾が述べる<心ぶら>の定義から。
 

 かう分けてみると、世にいふ=心ぶら=とは……その一丁目及び二丁目がもつところの、凡そ七百メートルほどの小売商店街を覗きながら歩くことをいふのである。しかし、何と云つても、心斎橋の魅力といふものは、このうちの二丁目が、その代表的な明朗さをもつてゐることにすぐ気がつく。


 およそ700mの商店街とは、長堀から道頓堀の間を指し、北側が一丁目、南側が二丁目で、その境界は周防町筋でした。


   心ぶら文献


 北尾が見た心斎橋筋の人の流れは、どのようだったのでしょうか。

 
 朝のうちは南から北へ、午後からあやめ灯の輝きはじめる夕方にかけては、北から南へ。そして夜の十時、十一時になると、また南から北へ!。
 かういふのが、平常一日中の心斎橋筋の人の動きだ。
 朝の人の波は、南から来るこの辺りの百貨店や、島之内附近の会社、銀行員の出勤時間。夜の人波は、道頓堀、千日前の芝居、キネマの開場前と、閉場後の人の動きである。成駒屋に随喜の涙を涙した女将さんも、長二郎や右太衛門に頬を熱くした芸妓はん、娘[いと]はんも、ゲーリー・クーパーに昂奮した女学生たちも、みな夜風に吹かれながら、人生の喜び、悲しみを明るいシヨーウインドーの中に求めて歩く。


 朝の通勤は、難波駅で降車して、この筋を勤務先へと急ぎます。
 夜は、道頓堀の劇場や千日前の映画館などで鑑賞した客たちが、心斎橋筋を通り抜けて北へ向かうのでした。初代中村鴈治郎(成駒屋)や、のち長谷川一夫と名乗る林長二郎、市川右太衛門らが活躍した時代。道頓堀・千日前と心斎橋筋は、ひとつながりになった繁華街でした。

 戎橋の南詰(松竹座の横あたり)には、人力車の待合所があり、そこから俥に乗って、心斎橋筋をガラガラと走っていくのが、懐かしい光景だったようです。

 北尾は、彼らしく人の流れを調べてみます。


 南へ流れる人のうごきは、まづ千日前、道頓堀へ散るとして、いったい、北に流れる同じほどの人の足が、どこへ行くかといふことを考へてみたことがある。
 そこで、数をとつてみると
 1、大丸百貨店の夜間営業に入つて、再び南へ引返すもの     四割
 2、心斎橋を渡つて、北詰で電車を待つもの     二割
 3、大丸の横手などに張り込む、辻待ちのタクシーに拾はれて行くもの     二割
 4、どこか中間の横道に外れるもの     二割
 といふことになる。
 心ぶらを北するものよ。大丸百貨店の角まで来たら、惜気もなく廻れ右をして引返し給へ。


 大丸が大きな吸引力となり、その手前の店舗のウィンドーショッピングを促すことになったのでしょう。

 ところで、ぶらぶら歩いていると、必要になってくるのがトイレ。当時、道頓堀の川岸に公衆トイレがあったのですが、やはり女性は綺麗なトイレを使いたいですよね。そこで、北尾が紹介する「立派なトイレートのあるところ」は…

 戎橋南詰から、丸万食料品店、鐘紡出張所、マルシン百貨店、大丸、十合[そごう]で、これらは無料。
 お金を払ってコーヒーなどを飲む気があるなら、森永キャンデーストアー、不二家、丹平商会(ソーダーファウンテン)、阪神喫茶店、つるや食堂、心斎橋食堂などがあるといいます。

 こんな穿った観察をするところは、北尾鐐之助らしい。
 <心ぶら>のいろいろな面が分かってきます。

 次回は、村嶋帰之の見た<心ぶら>を紹介します。




秋が近づく鹿児島






 窓外に照国神社の大鳥居を見ながら、書いています。

 鹿児島出張も最終日です。
 昨日は、鹿児島県歴史資料センター黎明館の<学芸講座>で、大大阪時代の大阪について講演をしてきました。
 約70名の聴衆にお集まりいただき、熱心に大阪の話をお聴きいただきました。
 お尋ねすると、8割ほどの方が来阪経験があるようです。


   鹿児島


 昨日の桜島は、かなり噴火したようで、写真でも山の右の方に噴煙が上がっていますね。
 一日外を歩くと、靴にもかなり灰が付いていました。


   鹿児島


 火山灰の集積場。ビニル袋には「克灰」と書いてあります。


 鹿児島は史跡の宝庫。
 大阪と同じ名前の「天保山」があったり。


   鹿児島


 こちらでは「てんぽざん」と読むそうで、薩英戦争などで用いられた砲台跡です。


   鹿児島


 旧鹿児島刑務所の正門があったり。
 明治41年(1908)竣工、石造の立派な門です。中央にバラ窓を持つゴシック様式の建物ですね。
 刑務所は現在は移転して、門だけがポツりと残されています。
 石の文化が根付いた鹿児島らしい近代建築です(登録有形文化財)。 

 今日もいい天気ですね。空には、ひつじ雲が浮かんでいます。南国鹿児島も、ようやく秋の気配でしょうか。





鹿児島の文化財を見る ~「異人館」と泉布観は酷似?! ~






 鹿児島出張中です。
 仕事の合間に、黎明館の方が鹿児島市内の史跡に案内してくださいました。

 まず、尚古集成館にうかがいました。仙巌園のある磯にあります。
 学芸員の方に、常設展示と特別展示「薩摩とイギリス~海が結んだ絆~」をご案内いただきました。
 柳田龍雪が描く薩英戦争絵巻など、迫力があります。薩摩とイギリスは、このあと逆に協力関係に移行するのですね。

 さらに、道路の向かいにある「異人館」(旧鹿児島紡績所技師館、重要文化財)に行きました。
 こちらは、以前から外観は何度も見ているのですが、休館だったり修理中だったりで、一度も内部を見学する機会がなかったのでした。初めて願いがかない館内へ。


   鹿児島


 磯地区は薩摩藩の工場地域ですが、そのなかに鹿児島紡績所が造られました。異人館は、紡績所に招いたイギリス人技師の宿舎として、慶応3年(1867)に建築されました。

 私が最も驚いたのは、その内部空間が大阪の泉布観に酷似しているということです。
 泉布観は、造幣寮の応接所として明治4年(1871)に完成した洋風建築です(設計はウォートルス)。
 両者は、外観は似ていないのですが、中央を通る廊下が、その幅まで同様な雰囲気で、部屋の構成やスケールも似ており、幅広のドアも瓜二つ。外周のベランダもよく似ている。
 その空間に立った印象として、泉布観にいるかのような錯覚を感じます。
 泉布観には暖炉があり、異人館には今はありませんが、当初の写真を見ると屋根に煙突が出ていますから暖炉があったことが分かります。

 どちらも英国系統の建物、コロニアルスタイルですから、内部空間の設計も一定の雛形があったのかも知れませんね。
 この問題は、大阪に帰って誰かに教えてもらいたいと思います。

 そのあと、旧島津氏玉里邸庭園(国指定名勝)を拝見しました。最近、整備が済んで公開されています。
 天保年間に造営された島津氏の別邸で、島津久光が晩年を過ごしたところでもあります。かつては、広大な敷地(いま女子高になっている)に、邸宅と庭園が広がっていました。邸宅部分は太平洋戦争でほとんど焼失し、いまは上御庭(うえおにわ)と下御庭(したおにわ)、茶室、黒門、長屋門などが残されています。
 

   鹿児島


 公開は下御庭のみで、写真の奥に茶室が見えています。
 池を中心とした回遊式の庭園です。上御庭と下御庭は、文字通り高低差があり、上御庭から下御庭に水が流れてくるようです。
 磯から運んだ巨石は、後楽園の石組みに想を得て作ったのでは、という話も聞きました。

 この玉里邸庭園も、今後多くの観覧者を集めることでしょう。   

 ご案内いただいた学芸員のみなさん、ありがとうございました!





鹿児島・黎明館で、企画特別展「大阪がやってきた!」開催!!






 脇田館長とともに、鹿児島に来ています。

 訪問先の鹿児島県歴史資料センター黎明館は、鹿児島城(鶴丸城)の城跡に建っています。


   鹿児島


 館の前には、かの篤姫の銅像が。
 昨年暮れに建立されたそうです。大河ドラマ以来、彼女もすっかり有名になりましたね。

 私たちの「来鹿」目的は、これです。


   鹿児島


 企画特別展「大阪がやってきた! 古代から近代 鹿児島とのつながり」という展覧会の開会式への出席です。

 この展覧会は、九州新幹線の全線開通記念展として開かれており、大阪の通史と、大阪と鹿児島との関係を示す資料を展示しています。
 大阪歴史博物館は、この展覧会に特別協力という形でかかわりました。
 館蔵品も26件出品しています。たとえば、こんな資料です。

 ・大阪城出土 金箔押桐文方形飾瓦
 ・文楽人形「静」
 ・摂津名所図会
 ・花外楼模型
 ・牡丹詰文花瓶(藪明山)

 藪明山(やぶめいざん)の薩摩焼は、鹿児島では「大阪薩摩」と呼ばれており、観覧者の興味を集めることでしょう。


   鹿児島


 こちらは、「静」と胴ですね。


 脇田館長は、開会式での挨拶とテープカットを行いました。


   鹿児島


 左端が高山大作黎明館館長、右から二人目が脇田館長です。

 このあと、担当の学芸員さんによる内覧会が実施されました。


   鹿児島

 
 地元放送局なども取材に来ておられました。脇田館長はテレビ取材も受け、あとで聞いたところによると、ニュース番組でしっかりオンエアされていたそうです。

 会期は、9月30日(金)から11月3日(木・祝)まで、鹿児島県歴史資料センター黎明館にて開催。


 最後に。昼ごはんは、黎明館のレストランで。


   鹿児島

 
 名付けて、“大阪カレー”!

 牛スジ肉を使い、上にはタコヤキが!!

 なかなか美味でした。 





プロフィール

なにわ歴博

Author:なにわ歴博
大阪歴史博物館

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