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市電と時計






 土曜日の今日は、一日雨でしたね。大阪歴史博物館の見学会<なにわ考古学散歩>、市内南部を歩いたと思うのですが、最後まで無事歩き通せたのか… 昨晩、担当のT学芸員が空模様を気にかけて、雷雨になったらどうしようかと心配していたんですよね。

 さて、前回ご紹介した北浜交差点の古い写真。
 さらにじっくり見ていて、また別のことに気付きました。

 写真の左端に、難波橋名物の<ライオン像>が写っています。写真では、お尻を向けて座っています。その右に、支柱に据え付けられた時計があるのです。ブログ上の写真では見えないと思いますが、針は8時50分を指しています。
 では、この街頭時計、いったい何のために立っているのか?

 『大阪市交通局五十年史』(同局、1953年)に、<電気時計>というものが写真入りで紹介されており、この写真に登場する街頭時計と同一物であることが分かります。『五十年史』には、次のように記されています。

 路面電車の正常な運転に必要な正確なる統一時間を運輸乗務員に知らせ、また市民の便を図るため大正12年初めて電気時計を主要交叉点18カ所(24面)に設置した。

 市電の定時運行のために、運転手がこの時計の時間を見ながら運行した、ということですね。
 支柱の上に時計が取り付けられており(2つ付けられているタイプもあった)、夜は上部に付けられた電灯により照らされたようです。
 写真の「北浜2丁目」交差点にも、電気時計が設置されたのでした。写真は、昭和3年(1928)撮影ですから、5年前の大正12年(1923)設置のこの時計が写っているわけです。
 いわゆる親子時計で、本局内にあった親時計と市街にあった子時計が結ばれて動いていました。だから、統一された時間(統一時間)ですべての時計が同じ時を刻んだのです。
 同様の電気時計は、京都市電でも昭和4年(1929)から設置され始めたそうです。

 ところで、日本の鉄道が時間に正確なのは、世界的に有名ですね。その事情を調べた三戸祐子『定刻発車』(交通新聞社、2001年、のち新潮文庫)によれば、国有鉄道において定時運行が定着していったのは大正時代頃のことだそうです。明治の列車は、意外にも、結構いい加減な運行だったらしい。
 当初、定時運行を確保するために、沿線に<目印>を定め、そこを決まった時間に通過するように運転士は「時計とにらめっこをして」列車を走らせたのだといいます。

 お分かりになったと思いますが、国有鉄道の列車・運転士は、その頃から時計を携帯していた、ということなのです。そして、大阪市電の場合、路上に電気時計が設置されたということは、運転士は時計を持っていなかったということなのでしょうか?

 電車の運転士といえば、懐中時計を持っているイメージがあるのですが、そうではなかったのか…
 あるいは、いちおう個人的に持ってはいたけど、遅れたり進んだり時刻がバラバラだから、統一時間を知らせるために電気時計を置いたのか…

 いま私には、大阪市電の運転士がいつから時計を携帯するようになったのか、よく分かりません。しかし、戦災で失われた街頭の電気時計は、昭和27年(1952)に復活し、戦後も動き続けたのです。

 今回は、ちょっと“テツ”っぽい話題でしたが、写真を細かく見ていくと、いろいろなことが分かってきて(そして謎がさらに深まって)おもしろいですね。
 






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