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「数」の前に立ち尽くす学芸員(5)






   キュレーションの時代


 今年の2月に、佐々木俊尚『キュレーションの時代-「つながり」の情報革命が始まる』(ちくま新書)が刊行された。情報そのままでなく、情報に意味づけ、価値づけをすることの重要性が具体例を通して指摘されている。
 
 紹介される事例は示唆に富むが、例えばブラジルのミュージシャン、エグベルト・ジスモンチの公演を日本で開催しようと企画するプロモーターの話。プロモーターは、どのようにすれば来日が実現できるかを思案。ジスモンチと共通性のありそうなアサド兄弟ぐらいの来場を見込めるのではないかと予測を立てたり、「現代ギター」という雑誌に着目し、ギターを演奏する人がターゲットになるのではないかと考えたり。結果、700席のホールでの公演はチケット即日完売。追加公演500席も即日完売となった。2007年のことだ。
 佐々木氏は、このような隠された客、氏の言葉でいえば<情報を求める人が存在している場所>を<ビオトープ>と呼ぶ。プロモーターは、ジスモンチにつながるビオトープを見事に見付け出し、成功につなげたのだ。

 本書の最後には、<中間文化はすでに消滅した>として、次のように書かれている。

 しかしこうした大衆的な中間文化は、21世紀に入るころからもろくも崩壊しはじめます。(中略)「月収3万5000円くらいの課長クラス」と「月収8000円の町工員」が同じ文化を共有した中間文化の圏域は衰退して、その基盤のうえで成り立っていたマス的な記号消費も消滅しつつあります。
 (中略)
 自分の仕事、自分の業界、自分の生活場所、自分の趣味、自分が生活の何を大切にするかというそのプライオリティ(優先順位)の違い。そして自分の人生の目的。
 そうした細分化された圏域によって、必要とされる情報は大きく異なってきます。

 佐々木氏の著書を読んで、書棚から中島梓『ベストセラーの構造』(講談社)を取り出した。1983年の刊行である。中島梓(栗本薫)は、30年前に知識階層の3層というべきものを指摘していた。

 最も上には、戦前(あるいは前近代)から続く教養主義的な<知識人>がいる。彼らは阿部次郎「三太郎の日記」や西田幾多郎「善の研究」などを読む人である。このことは、私たちにとっても、一昔前までは常識だった。筒井清忠『日本型「教養」の運命』(岩波現代文庫)をみると、旧制浪速高校の生徒の愛読書調査が掲載されているが、倉田百三「出家とその弟子」、夏目漱石「こころ」、阿部次郎「三太郎の日記」、西田幾多郎「善の研究」、ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」などがあげられている。彼らが知的エリートであった。
 逆に下層には、<知的ロウアー・クラス>がおり、彼らは活動写真や芝居、落語で欲求を満たし、「講談倶楽部」「キング」や「鞍馬天狗」「のらくろ」の読者であった。
 中島はいう。「誰も、それを高尚なものだなどと考える必要も、いわれもなかった。かれらはおのれの求めているものが慰安であることをよくわきまえており、求めているものを得た。かれらは大衆であって、文学になど用はなかったのだ」。
 中島がいう、あるときまで文学と読み物とは全く別物であったという指摘は正しい。

 そして、上と下との間に、新たに<知的中流階級>が登場した。彼らは、知的虚栄心の持ち主である。中島の鋭い言葉でいえば、<知的になる>のではなく<知的にふるまう>ことをめざす人たちである。
 つまり、

 本来、教養小説に見られるように、教養主義の基本とは、発展し、進歩し、蓄積してゆくたえざる過程である。しかし、それは同時にこれまでの自己自身をたえず未熟とみなし、排斥し、批判してゆく行為であることを意味する。
 中流階級は自己を排斥し、批判し、客観視し、止揚してゆくことを望まない。なぜならかれらの望んでいるのはその正反対のこと、自己に満足し、ちょっとしたものだと考え、甘やかなゆるしと導きのなかで互いに容認しあうことにほかならないからだ。

 と、明快である。

 この、上・中・下という3層構造。いま、その<中間>が消えていく。それはつまり、≪週刊○○≫や≪○○新聞≫を読むということがなくなり、地上波の≪○○放送≫を見ることがなくなることなのだろう。
 また、教養主義はすでに死滅し、<知的エリート>も消え去った。それは、マルクスやカントや和辻哲郎といった名前を知らなくても恥ずかしくない、ということだろう。
 このことは、いわば<知的グレード制>の崩壊といえるし、<文化のグレード制>の崩壊ともいえる。つまり、夏目漱石「こころ」が「ONE PIECE(ワンピース)」より上位であるとか、クラシックが演歌より高級であるとか、そのような優劣が言われなくなったということだろう。

 これを博物館でいえば、(大阪市立博物館-大阪歴史博物館の例でいえば)「桃山文化展」が高尚で、「阪神タイガース展」が下劣だ、と即断できず、両者は等価であることになる。だからこそ逆説的に、<数>が誰にでも分かる指標として浮上してくる。
 戦前でいえば、「善の研究」と「講談倶楽部」の読者数は、かなり差があっただろう。だからといって、少数派の前者がダメだということにはならず、むしろそのエリート性ゆえに“上”だといわれたのではないか。
 
 <知的グレード制>の解体が、<数>の論理を加速させている。高尚だからといって<数>が少なくてもよいといわれることはない。
 しかしながら、旧来のグレードに代わる新たなグレードを確立することも正しい方向とは思えない。
 そうであれば、対象が既定のどのグレードに属するかで価値判断するという方法ではなく、1つ1つの事例に即して、その価値を判断するという方法しかないのではないか。
 これは、展覧会でいえば、それぞれの催しについて、地道に<批評>を行っていく、ということでしかない。
 
  (この項、つづく)




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