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渋川玄耳『日本と世界見物』と文楽






 岡本一平と八千代のことを調べていたら、「渋川玄耳」という名を見つけた。おや、と思った。シブカワ・ゲンジ… そういえば、と書棚から本を取り出した。


日本と世界見物1


 渋川玄耳の著書、『藪野椋十 日本と世界見物』だ。初版は、大正6年(1917)、誠文堂刊。
 装丁も、結構イケてますね。
 
 渋川玄耳のことは、これまでよく知らなかった。今回知ったのは、この人が東京朝日新聞の社会部長であり、大正元年(1912)、岡本一平を同社に招いたということ。また、夏目漱石を招聘したのもこの人で、熊本時代から漱石の知り合いだったらしい(渋川は佐賀県の出身だった)。
 そのため、『日本と世界見物』の序文は、漱石である。内容は、「東京見物」「鎌倉見物」「京都見物」「奈良見物」と来て、ようやく「大阪見物」。そのあとは、「神戸見物」「朝鮮見物」「世界見物」と続く。915ページもある分厚い本だが、「大阪見物」は50ページ足らずである。でも、なかなかおもしろい。明治41年(1908)に書かれたものだ。
 


日本と世界見物3


 主人公の椋十先生は、心斎橋筋、道頓堀、大阪城など、大阪名所をへめぐるのだが、ここでは「文楽座」のくだりを紹介しよう。

 「文楽座に操人形を見た。
  摂津大掾といへば今日の世なら大阪府事務官とかいふものぢゃと苔野がいうた。併(しか)し府県の事務官などよりずっと此の浄瑠璃語りは貴い、日本一ぢゃもの」

 どういうことかというと、「掾(じょう)」というのは、受験で覚えた「守・介・掾・目」(かみ・すけ・じょう・さかん)という国司の四等官のことを指していて、「大掾」なら府の事務官クラスだと、ちょっとズラしてみたもの。
 この摂津大掾は、文楽太夫の竹本摂津大掾のことである。それはそれは、府の事務官より、ずっと偉いだろう。

 「好い顔ぢゃ、眉が長うて羅漢様の様、貌(かたち)からして人間離がして居る、芸はといふとちと困るが、(中略)摂津の大掾の浄瑠璃は其(自分の)心得て居る節とは全然違ふが不思議ぢゃ瞽女唄と違ふ許(ばか)りでなく、此座中の外の語り手とも違ふ、一口に言へば節といふ様なものはまづ無い、勝手に演説して居る、それで神祇釈教恋無常、喜、怒、哀、楽、愛、悪、慾、七情のつぼつぼを極めて居るから奇妙ぢゃ、」

 節はないが、喜怒哀楽などのツボを押さえた語りであると感心する。

 「芸題(げだい=外題)は何か忘れた、中途から聞いたで解らなんだが、無暗(むやみ)に人の死ぬる仕組ぢゃ、それでさア泣け泣けと責め立てる、勿論俺は泣いた。
 『苔野、お前も涙が出るか。
 『畜生、此んな脚色をしやがって、人を無理に泣かせアがる、外の人も皆泣いてまさア、泣かずに居られない様にして有るンですもの、其れにまた三味線の奴がサア泣け泣けと嗾(け)しかけるでせう、堪りませんや、」

 椋十先生も苔野クンも、ほかのお客も、泣きに泣いたというのである。


日本と世界見物2


 このときの文楽座は、御霊神社にあった。
 摂津大掾は、5年前に越路太夫から摂津大掾となり人気を博していた。しかし、この翌年(明治42年)、文楽座は経営不振によって松竹合名会社に譲渡される。摂津大掾も、大正2年(1913)に引退し、どのようにお客を集めていくのか難しい時代になっていくのである。

 このくだりを読んで驚かされるのは、お客がみんな泣いているということである。いま文楽をみると、心中ものなど悲哀に満ちた話も多いが、なかなか泣けるものではない(映画をみると、結構泣く私だが…)。やはり三百年以上たつと、社会背景も変わって共感できないのかなと思っていた。
 明治後期、百年前の大阪の人たちは、文楽に共感して泣いていた。いま、なんで泣けないのだろう… そして、泣けないということは何を意味しているのだろう… 考えさせられる話である。


 
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