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<心ぶら>その2






 村嶋帰之(むらしまよりゆき)は、世相や社会の底辺を鋭くルポルタージュした人物で、その出世作は『ドン底生活』です。著名な横山源之助など都市下層社会に関心を持ちルポした人は多いのですが、村嶋もその一人で、大正・昭和初期に数多くの著作を残しています。

 今回は、彼の『カフエー考現学』(日日書房、1931年)から、<心ぶら>に関する部分を紹介します。テキストは、『村嶋帰之著作選集』第1巻(柏書房、2004年)に収められています。


   心ぶら文献


 村嶋は、夜な夜なこの界隈を歩く人たちに目を向けます。


 それにしても、ここに夜毎、吸はれるやうにして集つて来る散歩人は、どこからどこへ徜徘[さまよ]ひ歩くのか。
 私が丹念に尾行して見たところによると、日本橋畔に電車、或はバス、円タクを捨てた散歩人は、道頓堀界隈に大体一時間半を費やすのだ。
 何処で、どう費やすかは時季によつて相違もあらうが、私の調査した八月、真夏の暑さをさける夜の散策は、道頓堀を十五分、心斎橋で十五分、喫茶店やキヤンデーストアで三十分、戎橋筋に十五分、千日前に十五分、都合一時間半をこの界隈で費やすといふのだ。
 そこで、これ等の散歩人は、どういふ工合に歩くかといふに、殆ど始終、速度を変へないで、同じリズムで歩いてゆく。勿論、立ちどまる場合もあるが、それは多くは活動の看板の前、或は野球のスコアーの掲示の前、それに大阪人の喰ひしんぼうを如実に現はしたものか、食物屋の前で立止る人達が随分多い。この頃よくある食物のサンプルを窓に陳列してあるところなどがそれだ。半えり屋や、洋傘屋などのシヨウヰンドの前で立つよりも、先づ喰べもの屋の前に立つところに、大阪人の特性が窺はれる。
 そして、これ等の散歩人は、余り買物をしない。たゞ飲物をとるか、軽い食物をとるのが関の山だ。


 村嶋は、この盛り場を回遊する人の姿を捉えています。
 男性に着目したのか、半衿や洋傘などには余り興味がないと記していますね。
 余りお金を使わなくても楽しめるところに、この界隈のよさがあったのでしょう。

 つづいて、時間ごとの街の動きを調べています。心斎橋筋に関する部分を抜き出してみましょう。


 やがて盛り場の南端、難波駅から吐き出されるサラリーマンや、サラリーウーマンの行列が[午前]六時半ごろから八時過ぎまで続く。大部分は大丸、十合[そごう]のデパートガールだ。その中に交つて氷屋の車が三十五六貫目もある大きな氷を積んで幾つも幾つも食堂に運び込む。
 そのころからぽつぽつ心斎橋筋道頓堀の商店街は目を覚す。が、飲食店は、南海食堂と難波のムライだけが起きてゐるの外、昨夜の疲れと今日の準備に眠つてゐる。
 九時、大丸の扉が開かれる、客は待ち兼ねた如くになだれ込んでも、まだ朝の心斎橋筋はねぼけてゐる。


 百貨店は午前9時から開店で、今より少し早かったのでしょう。しかし、宵っ張りな心斎橋筋の多くの商店は、まだ開店していないようです。


 正午のサイレンが南五花街の事務所から鳴りひびく。(中略)またもや大丸ガールの後勤の群が北進する。大丸ガールの寄宿舎が南海沿線にあるのだ。
 (中略)
 六時五分--廿[20]分。これは一日の労働を終へた大丸の女子軍が南下する時刻で、これからいよいよ道頓堀は夜のドレスをつける。(中略)九時四十分--十時過ぎまで後勤の大丸ガールの南行が終わる。これを「ライラツクタイム」と称して、わざわざこの時間、心斎橋筋を南行するドン・フアンもゐる。


 “ライラックタイム”。おそらく、昭和3年(1928)の同名のアメリカ映画から取っているのでしょう。コリーン・ムーアとゲイリー・クーパーが主演した恋物語です。いつの時代も男性は…、という感じでしょうか。
 それにしても、モボ・モガが闊歩する心斎橋筋ですが、意外にもデパートガールが多かったようです。


 間もなく劇場寄席のはね時、十時半が続く、この時こそ、一日中での一番の花やかな時間である。芝居帰りの客を拾はうとする自動車群が、難波、千日前、戎橋、心斎橋、大丸横等々各要所要所に巡査のお目玉を覚悟で押しかける。ために人の流れは、あちらでも、こちらでも自動車にせき止められて街頭にあふれる。喧噪! とはこの時刻であらう。
 また食物屋はこの時間に一日中の大部分を売上げる。
 (中略)
 しかし心斎橋筋の丹平薬局奥の喫茶部はすでにこの時分には店を閉じてゐる。
 ついで十時半に丸信二階の喫茶部も山を入れてしまふ。
 劇場寄席帰りの客の流れがとまるころ、いひ換へると十一時ごろ心斎橋筋の商店は店を閉め、明治、森永は客を追ひ出しはじめる。

 
 現在より劇場の終演時刻は遅めでした。その帰り客をつかむ飲食店が多かったことが分かります。道頓堀・千日前と心斎橋筋は、一体となった盛り場だったことが理解できますね。
 村嶋によると、このあとの時刻は「カフエーの天下」だそうです。

 昭和初期の夜の盛り場は「白昼街」となり、街路灯、ネオンサインや電飾、ショーウィンドーの照明、ライトアップなど、電気の時代を実感させる状況でした。
 そのため、現代と同じくらい(あるいはそれ以上の)夜の賑わいが見られたのです。
 
 村嶋の報告を読むと、デパートガールの姿が印象に残りますが、女性が社会で働き始めたこの頃、百貨店は彼女たちが比較的安心して勤められる職場だったのでしょう。しかし、その一方で「カフエーの天下」という深夜の街で働く女性も、また多かったのでした。






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