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五来重『西国巡礼の寺』






 見学会で、西国三十三所の札所を訪れることなどもあり、以前から五来重氏の『西国巡礼の寺』(角川ソフィア文庫、2008年=原著1995年)を参照している。


   西国巡礼の寺


 五来氏といえば、宗教民俗学の大家(故人)で、私も学生の頃、『高野聖』を読んだ覚えがある。

 この書物には、いろいろと教えられる。
 3年前の見学会で訪れた笠置山。そこには修験の場があり、巨石がごろごろしている。そのなかに「平等石」という岩があった。不思議な名前の意味が分からなかったが、あとで本書を読むと、「平等」は「行道」が変化したものであり、修験者がめぐる(行道する)石を指しているという。そのような例は、大峰山や伊吹山にあるそうだ。
 はっとする指摘だった。

 今週末に見学会で訪れる三室戸寺は、西国三十三所の第十番札所。
 五来氏は、すべての宗教は<歩く宗教>から始まったとされ、まず遊行者・聖という“プロ”の宗教者が登場。それに従って一般人(俗人)も歩くようになり、さらには俗人だけが巡礼するようになったとする。
 
 そのプロの巡礼の時代、三室戸寺が三十三所の最後の札所(結願寺)だったことがあるのは、五来氏も指摘するように、つとに知られている。
 平安時代の終わり頃、三井寺の行尊は、長谷寺を振り出しに大和・紀伊・和泉・河内・摂津・播磨など諸国を経て、京都に戻り、三室戸寺で結願した。ただ、行尊の巡礼は史実かどうか疑問な面もある。
 その後、同じ三井寺の覚忠が、応保元年(1161)、那智から始めて、75日をかけて、三室戸寺に至る巡礼を行った。
 五来氏は、「いまはあまりお参りする人がありません。・・・どうしてあそこに霊場ができて、しかも結願寺になったかという問題は、まだ私にもわかりません」と言っている。
 戸田芳実氏らは、天台宗寺門派の三井寺(行尊や覚忠の寺)が代々、熊野三山検校に任ぜられたことから、三十三所の組織化に寺門派が関与したと推測。三室戸寺も三井寺の末寺であったことから、結願寺になったのでは、と示唆する(戸田『歴史と古道』人文書院、1992年)。

 三室戸寺は、かつてその本堂が清水寺・長谷寺・石山寺などと同じ懸造(かけづくり)だったという指摘もあり(浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』)、拝観するのが楽しみだ。

 『西国巡礼の寺』で、五来氏が強調されているのは、巡礼の望ましいあり方は、そこまで歩いて行って、その場所でめぐることだという。
 百度石など、まさにその場でめぐる行為。
 氏がおっしゃることでよく理解できるのは、罪を懺悔する(悔過[けか])のに口先だけでなく、からだで懺悔する、という点だ。海外などで今でも見かける<五体投地>は、その例である。
 西国三十三所巡礼は、230里(約920km)もあるという。
 それを歩いてめぐることは大変な苦行。でも、それを行わないと悔過できないということも、なんとなく理解できる。

 西国巡礼をされる方は、深い洞察に満ちた本書の一読をお薦めしたい。




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