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「大大阪」の誤解






 当館も開館10周年となって、この間、普及に努めてきた「大大阪」という言葉も、かなり広く知られるようになった。

 先日も、あるテレビ局の記者さんが取材に来られ、「大大阪」について教えてほしいと言われる。
 どうも、華やかで栄えていた時代として、大大阪を紹介したいらしい。
 やっぱり洋装の女性も多かったのですか、と問われる。
 実際は、そんなことはない、女性はほどんど着物ですよ、ということになるのだが、認識のギャップがあるようだ。

 また、先日も書店で、京阪神の“名建築”ガイド本が刊行されているのを見た。
 手に取ってみると、その“名建築”とは、すべて近代建築なのだった。まったく断りなく、建築=近代建築みたいになっている。京阪神といえば、京都を中心として、ずいぶん近代以前の名建築(古建築)があるはずだが… 
 それほど、近代の文化財が市民権を得たということだろう。

 これらの現象は、ここ数年顕著になってきたが、啓蒙が進んだと喜ぶべきなのか、行き過ぎと反省すべきなのか、むずかしい。私はすでに後者に傾いている。

 いま、手元にあった橡内吉胤『日本都市風景』(原著1934年、筑摩叢書に収録)をペラペラ繰っていた。
 そのなかに、「三都街風景」という随筆があった。橡内は、東京朝日新聞の記者などを務めた都市景観・都市計画に詳しい識者だが、東京のことも大阪のことも知っている。
 彼が紹介する昭和初期、すなわち大大阪の時代の街の様子を引いてみよう。

 
 たとえば、大阪なら大丸とか三越といったデパートの屋上に昇って鳥瞰してみれば、一目瞭然たるものがあるが、大阪にもビルディングの新出現によって近代の資本主義時代を印象づけてはおるが、東京に較べると、まだまだ孤立的なものが多くて、そのグループを発見することが出来ない。そしてその平坦な地形……煤煙にかすんだ空……大阪城の天守閣……新世界の望楼……といった特異な物象の聯合観念のもとに、大阪たる所以のものをハッキリと掴むことが出来るのであるが、それにもまして大阪の街の風景をまぎれもなく印象づけるものは、これらの散点するビルディングの島嶼を囲繞して累々たる大阪古来のあのドス黒い屋根をみせた町家の海だ。

 (中略)

 が、三都いずれも、その地方色を鮮明に盛った伝統的町家が近代の洋風建築のために押されてきて、その街景は一様に近代的になりつつあることは共通の現象ではあるが、それでも比較的古い家の多量な大阪の街景から推して、大阪人の性情のどっかに、あの近代色のビルディングを囲繞しておるシックイ造りの燻んだ色がつきまとっておるようにおもえる。大阪に鴈治郎の芝居がうけるのも、天満や御霊の社寺が発行するのも、大阪城の天守閣を復興させたり、街を動いてる男女の姿態にみても東京なんかにくらべて洋装がズンと尠ないといったことも、呉服物の柄や色合いの上にも一種渋い大阪好みというようなものが現われてくるということも自然に解るような気がする。

 私は両三年前あのドス黒い町家の続いておる道修町の薬種問屋の街から平野町へ歩いて往ったが、ここに大阪朝日の上野精一氏(同名異人だったらごめん)の邸宅を見つけたが、その邸宅は、やっぱり大阪固有の塗りごめ造りの豪壮なものであった。新聞なんかいういわゆる尖端的な事業にたずさわっておらるる人がこうした古風な家棟に住んでおるということは、ちょいとゆかしいようなまた一種異様な感じがせんでもない(甚だオセッカイな話だが……)。

 (中略)

 とにかく、一種近代的な色彩でグングン塗りつぶされてゆくようにおもわれる大阪の街に、案外まだまだこうした寂びの風景がシミのように残っておることを逸してはならない。


 この橡内の指摘に、私もほぼ同感である。
 「ドス黒い屋根」の町家や、「シックイ造りの燻んだ色」の町家が、大量に櫛比している街が大阪であり、その屋根の下で日々の暮らしが営まれている。
 この街並みを「黒く低い屋根の海」と呼んだのは小出楢重であった。

 都市に、古いものと新しいものが混在しているのは当然である。歴史を眺めていると、どうしても新しい側面に目が向いてしまうものだが、変わらないもの、伝統的なもの、慣習的なものに注意を払うことを忘れてはいけない。最近、自戒を込めて、そう思うのである。




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