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マイクロの新聞閲覧と通し矢






 必要が生じたので、図書館に行って、戦前の新聞をマイクロフィルムで閲覧しました。


   新聞(マイクロ)


 最近では、デジタルで閲覧できる新聞もありますが、今回見たかった大阪毎日新聞の昭和初期の分については、昔ながらのマイクロフィルムでの閲覧です。
 くるくるとフィルムを回しながら見る装置なので、クルマ酔いみたいな現象が生じることもあります。

 新聞調査でおもしろいのは、本題と全然関係ない記事で興味深いものが多いことです。
 今回は、昭和8年と10年の一部について閲読しましたが、大阪で商工祭が始まったり、“モダン寺院”三津寺が竣工したり、大阪城内の紀州御殿が「天臨閣」と改称されたり、満州国皇帝になった“ラストエンペラー”溥儀がやってきて奉祝騒ぎになったり…、まあ、さまざまです。
 そのなかで、私の注目を引いた記事が、

 <講談本から世に出る 通し矢の名手  三十三間堂の通し矢の額 調査漸く終る>

 というものです(大阪毎日新聞、昭和8年[1933]11月2日付)。


   新聞(通し矢)


 通し矢については、先日このブログにも書きました。
 その歴史については、一般の書物にも、例えばこのように書かれています。

 「1669(寛文9)年、尾張藩士星野勘左衛門が総矢数1万542本中8000本を射通して天下一となり、1686(貞享3)年には紀州藩の和佐大八郎が総矢数1万3053本中通し矢8133本で天下一となった。以後、その記録は破られていない」(『歴史散歩26 京都府の歴史散歩(中)』山川出版社)

 いままで、通し矢の記録の情報が、いつどういう形で明らかになったか、まったく考えたこともありませんでした。
 ものの本には、通し矢の最後は明治28年(1895)で、以後途絶したとあります。
 その時点で、星野勘左衛門や和佐大八郎の記録(200年以上前の話になりますが)は、記憶されていたのか、忘れられていたのか。また、明治後期以降に、忘却されてしまったのか? そのあたりは、よくわかりません。

 いずれにせよ、昭和初期には、記録のことは誰も(正確には)知らなかったらしい。
 それが、三十三間堂の昭和の大修理(昭和4年~9年)に際して、京都帝国大学の調査で明らかになったと、新聞には書いてあるのでした。

 大阪毎日新聞には、次にように書かれています。


 (前略)本堂の修理がはじまり「通矢の額」が降ろされたのを機会に、これまで何人も研究しなかった額面三百三十余について調査をしてゐた(中略)
 それによると、(中略)講談などで人口に膾炙してゐる星野勘左衛門茂則や、和佐大八郎則遠の通矢に関しても興味ある結果が判明するに至つた、即ち星野勘左衛門は寛文九年五月二日総矢一万五百四十二本の内通矢八千本、和佐大八郎は貞享三年四月二十七日総矢一万三千五十三本中通矢八千百三十三本といふ数字がわかり、しかもこのレコードは以後何人も破るものが出なかつたもので、かかる正確な数字は今回の調査の賜物といはれてゐる


 どうでしょうか。今日、私たちが知っている情報は、昭和8年(1933)までに京都帝大の研究者が、梁などに掲げられていた通し矢の奉納額を調査して、判明したものでした。
 ちなみに、星野勘左衛門や和佐大八郎の額は、現在も堂内に陳列されており、私たちも目にすることができます。

 ただ、ひとつ疑問なのは、三十三間堂には、1606年から1853年の記録(のべ約800人分)を記した「矢数帳」というものが残されているはずで、これを参照すれば、彼らの記録も把握できたのではないか、ということです。
 もしかすると、この矢数帳の存在も、明治以降は忘れられていたのかも知れません。

 いずれにせよ、地道な調査が大切なことが理解できます。
 今日もまた、先人の努力に頭が下がる思いでした。





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