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植田正治のこと






 先日、当館で開催している「変わり兜×刀装具」展が、NHK「日曜美術館」のアートシーンに取り上げられた。いちおう広報担当なので、オンエアをチェックした。念ため、番組の最後まで見ていたら、次回は植田正治を特集するという。

 植田正治。

 鳥取が生んだ世界的な写真家。
 鳥取砂丘を“スタジオ”にして、構成的な人物配置によって、誰にも造れない世界を創り出した写真家。
 その植田正治の特集。

 番組の中ほど、植田と土門拳との対比について触れた部分があった。
 土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」というテーゼと、写真界にひろがるリアリズムの風潮に、植田が心を痛めたというものである。
 評論家の飯沢耕太郎は、「『絶対非演出の絶対スナップ』を提唱することで、写真の表現領域の幅はかなり狭められたといえる。少なくとも山陰の鳥取砂丘を舞台にして、ユニークな群像写真を撮影していた植田正治のような作家にとっては、『非演出』という足かせは相当に重かったのではないかと想像される」と述べている(『戦後写真史ノート』)。

 ほぼ同世代の植田と土門は、ともに少年を被写体とした写真を数多く撮っている。土門の少年たちは自然体だが、植田の少年はみな“カメラ目線”だと指摘される。
 この点について、ゲスト出演した写真家の荒木経惟は、客観的なことがリアリズムなのではなく、写真家が撮られる者に働き掛けることで真実が浮かび上がるのだ、という趣旨のコメントをしていた。

 戦前の「少女四態」などを例にした飯沢耕太郎の発言を引こう。

 「これらの写真は単純な『リアル・フォト』ではない。現実をストレートに撮影するのではなく、植田は明らかに人物にポーズをつけ、画面のなかに配置している。しかし、完全に絵空事の演出写真かというとそうでもない。『少女四態』では四人の少女のポーズから、それぞれの個性が浮かびあがってくる。また『茶谷老人とその娘』では、二人の人物の間の空間に老人と娘の心理的距離が象徴的に表現されている。
 (中略)
 この時期に植田が見出そうとしていたのは、いわばリアリズムを超えた演出写真とでもいうべきものであった。つまり演出によって、人物たちの存在の原型ともいえる本質的な姿が浮かびあがってくるのである」(『日本写真史を歩く』)

 「リアリズムを超えた」リアルの追究。
 確かに、植田正治の写真にはそう思わせるところがある。

 なにか児戯のように滑稽なのだが、それを通り越した向うに不可視な何かが潜んでいる。それは、際限なく続く砂丘のように、私たちを誘っていく…

 最後に、なんで植田正治があのような写真を撮れた(撮った)のか、という問いについて、本人もよく分からなかった(「そげになってしまうんじゃ」みたいに言っていたらしい)という話が紹介されていた。本当に、狙った演出ではなくて、天性の演出だったらしい。

 懸案にしていた、鳥取の植田正治写真美術館に行く、という課題をいよいよ今回解決しようかと思ったら、12月1日から2月末まで「冬季休館」なのだという。

 植田正治への道は、まだ遠い。 



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