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坂口安吾が見た大阪






 今日は、坂口安吾の書いたものを手に取りたくなって、手近にあったちくま文庫の全集を見た。
 戦後、昭和26年(1951)、大阪にやってきた安吾は、見たままの大阪を辛辣な筆で切っている。そこで、なるほどと思わされたのが、競輪場での話だ。

 
 私はひところ競輪に凝って、各地の資料や雑誌や、選手名鑑などを取り寄せて熟読ガンミしたことがある。東京の競輪雑誌は誤植がひどい。一頁にいくつあるか見当がつかないくらい多い。一秒の十分の一という微細な数字が資料の基本となるのだから、誤植だらけの競輪雑誌などは意味をなさないのである。
  (中略)
 関西の雑誌や名鑑はこうではない。私の見たのは競輪ダービーという雑誌であるが、誤植などは殆ど見ることができないし、各人の実力の比較なども一応人が納得できるだけの資料と方法をつくしている。全国に支部があって、各地の競輪の着順やタイムのみではなく、レースの実際を各支部から報告させて表面の記録だけでは分らないことを載せている。そして月々の全国のレースの結果は殆ど全部あつめている。これ以上のぞめない程度の実質の粋をほぼつくしている。レースは水ものだから、こうしても正確は期しがたいが、予想の資料としてはほぼ手のつくしうるところまでの努力をつくした感が多分である。
 ここが大阪のよいところだ。実質的で、お体裁のところがない。 (中略) 損をしても諦めやすい東京人とちがって、大阪人は競輪雑誌や名鑑を基に車券を買って損をした場合にはカンカンに立腹してネジこみもするかも知れんし、第一、二度と同じ雑誌を買わないだろう。大阪人は案外物分りがいいから、賭け事の予想に絶対正確をもとめるようなヤボなところはないようだが、一応手をつくした努力の跡が見えて一応は理に合った実質がそなわらないと商品として通用できないようなところがあるようだ。
 この実質精神や合理精神は大阪の長所であろう。誤植だらけの競輪雑誌が通用するような庶民精神の存在は賀すべきではない。
     (「道頓堀罷り通る」1951年、『坂口安吾全集18』(ちくま文庫)所収)

 どうだろうか。東西の競輪雑誌に対する<厳しさ>の違い。安吾は、「庶民精神」が非常に発揮される領域で、それを観察する。

 私も、この大阪人の健全さを喜ぶものである。近頃、人が優しくなって、「誤植の1コくらい、まあエエやん」となりそうだが、やはりそれは違う。
 その一方で、「大阪人は案外物分りがいいから、賭け事の予想に絶対正確をもとめるようなヤボなところはない」。
 この<寛容さ>。

 大阪の人のいいところは、この<厳格と寛容>のうまいバランスにあったはずだ。ひとりの人のなかにも、世間のなかにも。
 
 安吾が書いてから、ちょうど60年。
 最近はどうかなぁ、と考えてしまう。
 んー、“誤植には寛大だけれど、予想の間違いには厳しい”みたいに、厳格にすべきところと寛容にすべきところが逆転しているんと違うかなぁ?




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