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映像フィルムの保存・修復






 博物館には、膨大で多様な資料が所蔵されています。これらの資料のなかには、傷みが生じたものもあります。その場合、修復が必要になります。
 たとえば、掛軸や屏風の表具(表装)の修復などは、その代表的な例です。

 私の担当する近代資料では、新しい時代ならではの特殊な傷みをもつ資料があります。
 ひとつは、紙の酸性化。ご存知の<酸性紙>の問題で、空気に触れやすい紙の周辺部からボロボロと朽ちてくる現象が起こります。終戦直後(1945年~)の紙質は極めて悪く、半世紀以上たった現在、ほとんどこの状態に陥っています。洋紙に生じる悩ましい問題です。
 修復には、<脱酸化>という手法がありますが、コストの問題から、現実には大量に脱酸化処理を行うのは困難です。

【映像フィルムの種類と素材】

 いまひとつは、映像フィルムの問題。今日は、いま取り組みつつあるこの事例ついて、少し詳しく述べてみます。
 大阪歴史博物館にも、戦前の映像フィルムが収蔵されています。これらは、一般の方が趣味として撮影したもので、家族や住まいの周辺、旅行の様子などが写されています。
 フィルムのサイズには、主に35mm、16mm、9.5mm、8mmがあり、35mmは劇映画のサイズですので当館にはありません。9.5mmは、一般にはご存知ないサイズだと思いますが、戦前家庭用に流行した<パテー・ベビー>などに用いられていたサイズです。コマ送りするための穴(パーフォレーション)が中央に付いているのが特徴です。8mmは、戦後大流行しますが、昭和初期に登場し、戦前でも用いられていました。

 いま私は、この8mmフィルムの保存・修復を検討しています。
 フィルム保存の困難さは、それが人工的に合成された化学物質で出来ている点から生じます。
 古いフィルムが自然発火する、という話を聞かれた方もいるかも知れません。事実、かつては頻繁にこの現象が起こり、映画撮影所などが爆発・炎上する事故が起きていました。これは、フィルムベースが硝酸セルロース(ニトロセルロース)で出来ていたためです。この発火性のあるフィルムをナイトレートフィルムと呼びます。1950年頃まで使用されていました。ただし、このフィルムは劇映画用なのです。家庭用フィルムが発火しては大変ですから、戦前から家庭用は不燃素材で作られていました。その素材が、酢酸セルロース(アセチルセルロース)です。

【ビネガーシンドローム】

 しかし、この素材は保存上の問題を含んでいて、時間がたつと加水分解という作用を起こして、自ずと劣化していくのです。どの程度の時間で劣化し始めるかは条件によりますが、目安30~40年位ともいわれています。つまり、戦前のこのフィルムはすべて劣化していると考えてよく、戦後に撮られたものでもそろそろ始まると考えてよいでしょう。この劣化を<ビネガーシンドローム>と呼んでいます。

 ビネガーシンドロームが始まったことは、簡単に判別できます。鼻を近づけて酸っぱい臭いがすれば、それが劣化の第一歩です。そのあと、ねばつく、白い粉を吹く、ワカメのように波打つ、ほどけない・割れる・折れるなど硬化する、といった現象が起こります。基本的に、これらの現象はどんどん進行していきますから、止めることは困難です。

【保存環境】

 そのため、劣化をやわらげる保存法を講じなければなりません。つまり、保存環境を良好にするということです。通常、博物館の収蔵庫は(資料にもよりますが)温度は20℃代前半、湿度は50~60%程度でしょう。しかし、このフィルムの場合、2℃~5℃、湿度40%前後が好ましいのです。たいへん低温で、専用収蔵庫に入ると寒いくらいの温度です。
 ふつうの博物館で、この環境を持つことはなかなか難しいでしょう。映像専門の国立近代美術館フィルムセンター(神奈川県相模原市に立派な収蔵庫がある)や、関西でも映画に力を入れている京都文化博物館などに専用収蔵庫があります。

【フィルムの実例】

 実際に、当館の8mmフィルム(昭和12~13年頃撮影)を見てみましょう。


  フィルム1


 フィルムは、このような缶に入っている場合が多いのですが、これは劣化を促進させる元になります。密閉がよくないのです。
 フィルムを出してみると、


  フィルム2


 余り劣化していないように見えます。しかし、酸っぱい臭いはします。
 しかし、巻きの内側は、このようになっています。


  フィルム3


 巻いているフィルムが「へ」の字形になっています。硬くなっているわけです。これは危ない兆候ですが、まだ映像内容は取り出せる状態ではないでしょうか。しかしこうなると、何らかの手を打たなければならない、ということになります。

【内容の保存(変換)】

 映像フィルムをビデオテープ・DVDなどに変換する作業を<テレシネ>といいます。当館でも、この変換を行ったことがあり、常設展示室で上映する「戦前のコウノトリ」や「昭和13年の阪神大水害」はこの手法でデジタル化しました。
 いまの時代だからデジタル化すればOK、とは必ずしもいえません。デジタルの記録フォーマットは時々刻々進歩していますから(フロッピーディスクが廃れたことを思い出してください)、数十年たてば再生装置もなくなり、再生できなくなってしまいます。これでは何のための変換か分かりません。それを避けるためには、その都度、新しいフォーマットに変換していく必要がありますが、手間も経費もかかります。

 現在、推奨されている方法は、フィルムをフィルムに変換する方法です。例えば、35mmフィルムを新たな35mmフィルムに移し替えるとか、16mmフィルムを35mmフィルムに移し替える(ブローアップ)方法です。
 この新たなフィルムをマスターフィルムにして保存します。そしてふだんは、そこから起こしたデジタル画像(DVDなど)を利用すればよいわけです。

 つまり、オリジナルフィルム(原資料)とデジタル画像(視聴用)の中間に、保存用フィルムを作るという考え方です。
 この方法の問題点は、中間のフィルムを作るための経費がかかることです(フィルムも安くないのですね)。
 当館では、現在これらの問題について検討しており、今年度、何本かの8mmフィルムを修復する予定です。

 
 2009年に、初めて映画フィルム「紅葉狩」が国の重要文化財に指定されました。ついで、2010年にも「史劇 楠公訣別」が指定され、映像フィルムの文化財としての価値が再認識されてきました。国や自治体、大学、企業、NPO、個人コレクターなど、多くの方が映像の保存に尽力されています。その動向や考え方については、機会があれば紹介したいと思います。
 





tag : /映像フィルムの保存・修復

市電と時計






 土曜日の今日は、一日雨でしたね。大阪歴史博物館の見学会<なにわ考古学散歩>、市内南部を歩いたと思うのですが、最後まで無事歩き通せたのか… 昨晩、担当のT学芸員が空模様を気にかけて、雷雨になったらどうしようかと心配していたんですよね。

 さて、前回ご紹介した北浜交差点の古い写真。
 さらにじっくり見ていて、また別のことに気付きました。

 写真の左端に、難波橋名物の<ライオン像>が写っています。写真では、お尻を向けて座っています。その右に、支柱に据え付けられた時計があるのです。ブログ上の写真では見えないと思いますが、針は8時50分を指しています。
 では、この街頭時計、いったい何のために立っているのか?

 『大阪市交通局五十年史』(同局、1953年)に、<電気時計>というものが写真入りで紹介されており、この写真に登場する街頭時計と同一物であることが分かります。『五十年史』には、次のように記されています。

 路面電車の正常な運転に必要な正確なる統一時間を運輸乗務員に知らせ、また市民の便を図るため大正12年初めて電気時計を主要交叉点18カ所(24面)に設置した。

 市電の定時運行のために、運転手がこの時計の時間を見ながら運行した、ということですね。
 支柱の上に時計が取り付けられており(2つ付けられているタイプもあった)、夜は上部に付けられた電灯により照らされたようです。
 写真の「北浜2丁目」交差点にも、電気時計が設置されたのでした。写真は、昭和3年(1928)撮影ですから、5年前の大正12年(1923)設置のこの時計が写っているわけです。
 いわゆる親子時計で、本局内にあった親時計と市街にあった子時計が結ばれて動いていました。だから、統一された時間(統一時間)ですべての時計が同じ時を刻んだのです。
 同様の電気時計は、京都市電でも昭和4年(1929)から設置され始めたそうです。

 ところで、日本の鉄道が時間に正確なのは、世界的に有名ですね。その事情を調べた三戸祐子『定刻発車』(交通新聞社、2001年、のち新潮文庫)によれば、国有鉄道において定時運行が定着していったのは大正時代頃のことだそうです。明治の列車は、意外にも、結構いい加減な運行だったらしい。
 当初、定時運行を確保するために、沿線に<目印>を定め、そこを決まった時間に通過するように運転士は「時計とにらめっこをして」列車を走らせたのだといいます。

 お分かりになったと思いますが、国有鉄道の列車・運転士は、その頃から時計を携帯していた、ということなのです。そして、大阪市電の場合、路上に電気時計が設置されたということは、運転士は時計を持っていなかったということなのでしょうか?

 電車の運転士といえば、懐中時計を持っているイメージがあるのですが、そうではなかったのか…
 あるいは、いちおう個人的に持ってはいたけど、遅れたり進んだり時刻がバラバラだから、統一時間を知らせるために電気時計を置いたのか…

 いま私には、大阪市電の運転士がいつから時計を携帯するようになったのか、よく分かりません。しかし、戦災で失われた街頭の電気時計は、昭和27年(1952)に復活し、戦後も動き続けたのです。

 今回は、ちょっと“テツ”っぽい話題でしたが、写真を細かく見ていくと、いろいろなことが分かってきて(そして謎がさらに深まって)おもしろいですね。
 






<抜きたがね>工場に行く






 今日は市内にある<抜きたがね>工場に行ってきました。
 そこで製造された<抜きたがね>の実物をご寄贈いただいたのです。



  抜きたがね3


 これが抜きたがね。“型抜き”をする道具です。
 みなさんが、台所でニンジンなんかをくり抜くときに使う道具の工場版ですね。
 革・布・紙・ゴム・薄いプラスチックまで、なんでも抜けます。


  抜きたがね1


 この工場では、抜きたがねを作るとともに、型抜きをする作業もやっておられます。
 写真は、抜く作業の実演中。プレス機を使って、抜いていきます。
 試しですので、段ボールを抜いてもらっています。

 たとえば、布などを重ねて抜くと、一気に5枚から10枚くらい抜けるわけです。
 同じ形のものを大量に作れるのが特徴です。

 今日いただいたのは、ベルトの先の革を抜くものとか、こども玩具の部品を抜くものとか、いろいろ。

 抜きたがねは鋼で出来ていますから、製造は鍛冶屋(かじや)などでみられる鍛造の作業になります。


  抜きたがね2


 鋼をたたいて形を作るのですが、熱する必要があるので炉があります。
 形が出来ると、最後にヤスリがけをして刃を付けます。<抜きたがね>という名称のほかに、<抜き刃型>という呼び名もあるようです。

 大阪歴史博物館の常設展示・7階(近現代フロア)には、実は<抜きたがね>を作る町工場を復元しています。
 今回の寄贈も、このKさんが展示を見てくださり、“うちもやってるよ”と連絡してくださったのが、きっかけです。

 生きた工場の様子が見られて、大いに勉強になりした。





江戸東京博物館との共同研究会






 今日は、毎年恒例の江戸東京博物館との共同研究会を開催しました。会場は、大阪歴史博物館。
 一昨年、昨年につづき3回目です。

 本日は、地震で大変なところ、江戸博から都市歴史研究室の行吉正一さんにおいでいただきました。
 今回のテーマは、「塔」。



   喜多川コレクション報告書


 行吉さんは、昨年、江戸博の調査報告書『喜多川周之コレクション』を編集、刊行されました。
 喜多川周之(きたがわ・ちかし)氏は、浅草の十二階(凌雲閣)という塔を中心としたコレクターでした。
 本日のご報告も、「喜多川周之コレクションから見た、盛り場浅草の塔『凌雲閣』浅草十二階」です。喜多川氏のコレクションは、さすがに貴重な写真や絵画が満載です。
 東京・下町随一の繁華街である浅草。その六区の北辺に建った十二階。明治23年(1890)のことです。当時の賑わった浅草の雰囲気に思いをはせながら、そこに屹立した十二階が彷彿とイメージされました。
 人気が落ち目になった十二階が取った方策が、「百美人投票」。美人コンテストですね。大成功したそうで、なんだかおかしい。

 一方、当館からは船越幹央学芸員が、「大阪における明治20年代の展望所を持つ施設について」を報告しました。
 明治21年、22年(1888~89)に造られた眺望閣「五階」や、凌雲閣「九階」、そして浪花富士山などについてです。

 東西の「塔」を比較して、面白い点が見えてきました。東京の十二階は、浅草という繁華街にあったため、ほぼ単体で建っていた。ところが、大阪の五階や九階は、その足元に遊園をもち、料理を食べたり温泉に入ったり遊戯をしたりできた。アミューズメントセンターですが、これが大阪の特徴です。

 いまひとつは、大阪の展望所は、市街地の外れにあったこと。五階(難波の南)にしろ、九階(梅田の北東)にしろ、少しさびしかったところですね。

 そして、最大の気付きは、五階や九階からは、文明開化の象徴“鉄道”が見下ろせること!
 五階からは南海鉄道が、九階からは官営鉄道が見下ろせます。どちらも、難波駅、大阪駅の近くです。高さは、30m~40m程度ですから、ちょうどよい高さだったのでは。
 展望台というと、遠くを見渡すことばかり考えていたけど、真下を見下ろすのもアリですよね。

 さらに、「塔」の概念についても検討。「閣」「楼」「櫓」など類語は多数ありますが、明治の資料では、大阪も東京も「塔」はあまり使わない。大阪では、第五回内国勧業博覧会(1903年)の「大林高塔」が思いつくくらい。
 日本人はいつから、(宗教での塔とは異なる)世俗的な意味で「塔」の語を使い始めたのか?
 大阪で九階などができた1889年は、パリにエッフェル塔が建った年です。浅草の十二階はエッフェル塔に刺激を受けたというのが喜多川氏の説だそうですが、いつからエッフェル“塔”と訳したのかも、気にかかります。

 そんなわけで、あっという間に3時間が過ぎ、楽しい研究会になりました。

 行吉さん、遠路ありがとうございました。
 また、来年も楽しみです!
 




<展望所>のつづきです






 昨日も調べていた明治の大阪の<展望所>。

 今日は、新聞記事からひとつ紹介。
 明治12年(1879)8月16日付の大阪朝日新聞より。(読みやすいように、漢字や句読点は変更しています)


 富士山現ハれ出で、琵琶湖湧き出づといへバ、みなさんびっくりなさるだらうが、この頃その形の現ハれしハ幸町の魚藤が発起にて、這回該町の裏畑を五百坪ばかり譲り受け、高く富士山を築成し、深く琵琶湖(二百坪)を掘り開き、中に活発なるコイ公を養ひ、来客のもとめに応じ、海女をして躍り一躍、水に入らしめ、池底に相□逐せしめ、以て客心を喜バしむべし
  (中略)
 右ハ、一昨日より開業したれバ、南陽の月にうそぶきし人は必ず一着を試み給へ。


 要は、「魚藤」という料亭が、近所の土地500坪(1650平米)を借りて、富士山みたいな小山を造ったり、琵琶湖の形をした池を掘ったりした。池にはコイを飼ったり、海女を潜らせたりした--というもの。
 幸町(さいわいちょう)は、いまの大阪市浪速区です。
 
 大阪では、明治22年(1889)にできた人造富士<浪花富士山>が有名なのですが、それより10年も前に、こんなのを造っていた人がいたとは!

 いろんなことを考え、実行する人がいるものです。




プロフィール

なにわ歴博

Author:なにわ歴博
大阪歴史博物館

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